「今、何か鳴りましたね」 彼女が紙束から顔を上げた。私は制御盤の前で息を止める。さっきのは、金属がわずかに触れ合ったような、短い音だった。空調の故障音とは違う。けれど、研究室は熱で軋み続けているから、何が鳴ってもおかしくはないはずだった。 「聞き間違いではないだろう」 そう返しながら、私は制御盤の蓋を開けた。中には配線が密に並び、熱で乾いた埃が薄く積もっている。彼女は私の肩越しに覗き込み、指先で記録用紙を弾いた。 「空調だけじゃないです。電源系統のログも変です。止まったり戻ったりしてる」 「ログが」 私は読み上げかけて、言葉を飲み込んだ。表示は正常に見えるのに、記録だけが不自然に飛んでいる。しかも、空調と別系統のはずの装置まで、同じ時刻に短い乱れを起こしていた。 彼女は別のメモを差し出した。薬品保管庫、冷却装置、計測機器。どれも一見ばらばらなのに、異常が出た順番を並べると、何かが室内を渡っていったように見える。 「いたずらなら、もっと分かりやすいはずです」 彼女の声が、少し低くなる。 「白衣を着て脅かすだけじゃなくて、設備そのものに触ってる。しかも、私が仕掛けた範囲じゃない場所まで」 私は配線図を広げ、指でなぞった。空調の電源、補助回路、計測機器の共通ライン。嫌な予感が、筋の通った形になっていく。誰かが一度だけ弄んだ、では済まない。何度も、しかも狙いを持って干渉した痕跡がある。 「外からだとしたら」 私が言いかけると、彼女は首を横に振った。 「そういう雑な話じゃありません。中で起きてます。私が隠していた冷却シートの位置も、足音を出した板も、触ったのは私だけです。でも、記録の乱れは私じゃ説明できない」 その言い方に、私は背中の汗が急に重くなるのを感じた。彼女の演出は認める。だが、それとは別の何かが、この研究室に手を伸ばしている。 私は機器の列を見回した。白い蛍光灯の下で、黙って並ぶ機材は、もうただの箱ではなかった。熱に浮かされて見えた怪異の輪郭が、今は別の不穏さを含んでいる。人の手で作られた恐怖の奥に、もっと説明のつかない違和感が沈んでいた。 「……少なくとも、これで終わりではないな」 つぶやくと、彼女も黙ったままうなずいた。さっきまでの怒り顔ではない。警戒を含んだ目が、制御盤の奥を見据えている。 私は配線図を折りたたみ、机に置いた。調べるべき場所は増えた。けれど、その増え方が妙に嫌だった。怪談は人を脅かすだけのものだと思っていたのに、今は研究室の奥に、誰の仕業とも言い切れない干渉の手触りが残っている。 彼女が小さく息を吸う。 「教授、次は機器の記録を全部見ましょう。私、まだ隠してることはありますけど、それより先に確認したいことがある」 その一言で、私は彼女の言葉の意味を測りかねた。ただ、ひとつだけ確かなのは、私たちが追っていた怪異の形が、いま変わり始めたということだった。
灼熱研究室の雪女
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