彼女が 「まだ隠してることはありますけど」 と言った瞬間、私は紙束を持つ手を止めた。言い訳でも挑発でもない、妙に平坦な声だったからだ。熱で鈍った空気の中で、その一言だけがやけに鮮明に残る。 「聞かせてくれ」 私がそう言うと、彼女は少しだけ視線を落とした。白衣の裾をつまむ指が、さっきまでより弱い。 「教授に言っても無駄だと思ってました。空調が壊れても、機器が止まりかけても、結局は我慢しろって返されるだけだって」 私は返す言葉を失った。否定できない。そう見られていたのだと、今さら思い知る。彼女は悪戯を仕掛けた側だったが、それは軽い遊びではなく、押し潰されそうな不安を形にしたものだった。 「私、前の研究室でも同じでした」 彼女は続けた。声は小さいのに、逃げる気配はなかった。 「設備が古くても黙っていろって、先輩に言われて。壊れたら自分で何とかしろって。何度も訴えたけど、弱い立場の学生の声なんて、最初から届かないんです」 その言葉は、部屋の熱より重かった。私はようやく気づく。彼女が怒っていたのは、私個人だけではない。声を上げても流される場所に、また戻りたくなかったのだ。 「だから、ここを守ろうとしたのか」 問い返すと、彼女は短くうなずいた。 「守ろうとして、怖がらせるしかなかったんです。変でしょうけど」 「変ではない」 即座にそう答えた自分に、少し驚いた。だが本心だった。見えないところで傷んでいたものを、彼女は自分なりに掴もうとしていたのだろう。私はようやく、彼女の仕掛けの裏にあった焦りと必死さを理解した。 机の上に広げた記録の紙を見下ろす。修理見積もり、申請の差し戻し、温度の乱れ、電源の不安定さ。数字や時刻の羅列は相変わらず無機質なのに、その向こうに彼女の孤独が透けて見えた。 「私も、見て見ぬふりをしていた」 口にした途端、妙に喉が詰まる。 「教授として、学生の不満を軽く扱ったつもりはない。だが、結果として放っていたのは事実だ」 彼女は黙って聞いていた。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただそこに立っている。その沈黙が不思議と心地よい。 「だから、これからは一緒に見る」 私は言った。 「設備も、予算も、誰がどこで止めているのかも。君が守ろうとした研究室なら、今度は私も同じ側に立つ」 彼女の目が、わずかに揺れた。信じ切るにはまだ早い。それでも、そこには先ほどまでなかったものがあった。疑いだけではない、試してみようとする光だ。 「……教授が本当に動くなら、少しは見直します」 口調は相変わらずぶっきらぼうだったが、頬の緊張はほどけている。 私は小さく息を吐いた。熱いのに、胸の内だけが少し涼しい。怪談の真似事から始まった夜が、いつの間にか二人で問題を抱え込む夜に変わっている。奇妙な信頼という言葉が、こんな形で生まれるとは思わなかった。 彼女が紙束を揃え直し、私に差し出す。 「次は、ちゃんと見てください。逃げないで」 私はそれを受け取った。研究室の奥では、変わらず機器が熱を抱えている。だが、今はもう一人ではない。そう思った、そのときだった。制御盤の奥で、ほんのかすかに、何かが鳴った気がした。
灼熱研究室の雪女
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