「逃げる理由がない、か」 莉桜はその言葉を小さく繰り返した。さっきまでの軽口に慣れた調子が、ほんの少しだけ崩れる。直樹はその変化に気づいたが、追い込むつもりはなかった。だから、ただ窓の外を一度見てから、何でもないように言う。 「無理に話さなくていい。電車の中で、眠くない相手に付き合うくらいならできる」 莉桜の目が、わずかに見開かれた。普通なら、そこで話題を切る。距離を置く。少なくとも、そう返すはずだとでも思っていたらしい。 「……普通なら、もう少し避けるはずなのに」 ぽつりと落ちた声は、いつものからかう響きではなかった。直樹は答えを急がず、肩の力を抜いたまま待つ。すると莉桜は、誤魔化すみたいに口元へ笑みを寄せたものの、その輪郭はどこか頼りなかった。 「みんな、近づいてこないか、近づきすぎるかのどっちかだから」 「ちょうどいい距離は、案外少ないからな」 直樹がそう返すと、莉桜は一度だけ視線を伏せた。車内の灯りが睫毛の影を薄く落とし、先ほどまでの強気な表情を少しだけ和らげる。 「それ、優しいって言うのかな」 「さあ。気を遣ってるだけかもしれない」 「逃げない理由がないって言ったのに?」 「だから、逃げる必要もない」 莉桜はそこで黙った。返す言葉を探しているというより、直樹の声の温度を測っているみたいだった。やがて、彼女は座席に深くもたれ、いつものような軽さをあえて薄めた声で続ける。 「……変な人」 「よく言われる」 「そういうの、平気なんだ」 「平気というより、慣れてる」 その返事に、莉桜はくすりと笑った。けれど次の瞬間、その笑みは少しだけ曇る。話を続けるかどうか迷う間が、車両の揺れに紛れて流れた。 「普通ならさ」 彼女は視線を上げないまま言った。 「関わらないほうが楽なんだよ。たぶん、みんなそうしてる」 直樹は短く息を吐いた。それは同意でも反論でもない。ただ、そこにある寂しさを急いで言葉で埋めないための間だった。 「楽かどうかと、正しいかどうかは違うだろ」 莉桜はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ目を伏せたまま笑った。今度の笑いは、挑発ではなく、ほどけかけた糸みたいに静かだった。 「……そういうこと、さらっと言うんだ」 「思ったことを言っただけだ」 「じゃあ、今のは本音?」 直樹は少しだけ考えたあと、うなずく代わりに視線を返した。莉桜はその反応を見て、また意外そうな顔をする。だが、今度はすぐに調子を崩したまま、無理に整えようとしなかった。 終電は変わらず静かに走り、外の暗さだけが窓を流れていく。莉桜はまだすべてを話してはいない。それでも、最初に見せていた刃のような笑みは少し薄れ、代わりに本音の欠片が、車内の空気へそっと落ち始めていた。
終電車内の挑発
全年齢小説ID: cmoz5uqbt050001nazzsvydoh
