エラベノベル堂

終電車内の挑発

全年齢

小説ID: cmoz5uqbt050001nazzsvydoh

8章 / 全10

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直樹は、ホーム側の扉の方へ視線を向けた。駅員に事情を尋ねれば、今後どうなるのか少しは分かるはずだ。けれど立ち上がりかけた瞬間、莉桜が強く袖を引いた。 「だめ」 声は小さいのに、鋭かった。直樹は驚いて振り向く。莉桜はさっきまでの曖昧な笑みを消し、唇をきゅっと結んでいる。さっきまでの余裕はどこにもない。指先だけが、制服の裾を離せずにいた。 「駅員さんに聞くつもり?」 「状況を確認したほうがいいだろ」 「やめて」 今度ははっきりした拒絶だった。直樹はそこで初めて、彼女が何に怯えているのかを想像した。待たされることへの苛立ちではない。誰かに見つかるかもしれない、その一瞬を恐れている顔だった。 「どうしてだ」 問いは責めるためではなく、確かめるために出た。莉桜は一度だけ周囲を見回し、誰もこちらを気にしていないと分かると、それでも声を落とした。 「見られたくないの。今、私がここにいるのを」 直樹は息を呑む。言葉は短いのに、その中身は重かった。彼女はただ移動を止めたいのではない。止まったまま、見つからないでいたいのだ。 「駅員でも?」 「駅員でも、誰でも」 その返事に、直樹の中で何かが静かに切り替わった。これまで彼女の挑発を受け流してきたのは、相手が自分のことを見極めようとしていると思っていたからだ。だが今は違う。莉桜は、周囲から身を隠すためにあの笑みを使っていたのかもしれない。 「じゃあ、俺も行かない」 直樹がそう言うと、莉桜は目を見開いた。予想していなかったのだろう。すぐに視線を逸らそうとしたが、逃げきれずに直樹の顔を見返す。 「……なんで」 「君が嫌がるなら」 たったそれだけだった。だが莉桜の指先が、袖を掴む力を少しだけ緩める。 「普通、そこまでしない」 「普通じゃなくてもいい」 莉桜は、そこで初めて本当に言葉を失ったようだった。車内の白い灯りの下で、彼女の表情から挑発が抜け落ち、代わりにむき出しの警戒が残る。それは直樹に向けられたものではなく、これまでずっと彼女を追い立ててきた何かに向けられているように見えた。 駅の放送はまだ定まらず、遠くで途切れがちに響いている。誰かがホームを歩く足音が一度だけ通り過ぎ、莉桜の肩がわずかに震えた。直樹はその震えを見逃さなかった。 守るべきもの、という言葉が、初めて胸の中で形を持つ。大げさな約束ではない。ただ、この少女が安心するまで、勝手に動かないこと。それだけが今の自分にできることだと、はっきり分かった。 「ここにいる」 直樹が短く言うと、莉桜は返事をしなかった。けれど、手はもう袖を引いていない。代わりに膝の上で、スマートフォンをぎゅっと握りしめたままだった。

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