ホームの空気は、さっきまでよりいっそう薄く感じられた。止まったままの終電の窓に、駅の灯りが白く滲む。直樹が視線を上げた、その瞬間だった。 ホームの奥に、誰かの気配が立った。 はっきり顔が見えたわけではない。ただ、そこに人がいるというだけで、莉桜の肩がぴたりと固まる。次の瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。 「……っ」 小さな息が漏れる。いつもの軽い笑みは消え、唇だけがかすかに震えていた。直樹はその変化を見逃さなかった。挑発じみた態度、わざとらしい余裕、からかうような声。その全部が、今この一瞬のために被っていた仮面だったのだと、急に腑に落ちる。 彼女は人を引きつけることで、同時に遠ざけていた。近づかせないために、あえて目立つように振る舞っていたのかもしれない。そう思うと、これまでの言葉の端々が別の意味を持って見えてくる。 「莉桜」 名を呼ぶと、彼女ははっとしたように直樹を見る。だが視線はすぐにホームへ戻り、身体ごと小さく縮んだ。 「見ないで」 震えた声だった。さっきまでの余裕はどこにもない。むしろ、見つかったら終わると言わんばかりの切迫だけが残っている。 直樹は息をひそめたまま、ホームの奥を確かめる。人影はまだある。だがこちらを探しているのか、ただ通り過ぎるだけなのかは分からない。莉桜は膝の上でスマートフォンを握りしめ、画面を見ようともしなかった。 彼女は逃げているのではなく、見つからないために笑っていた。 そう気づいた直樹の胸の奥で、何かが静かに重くなった。 「大丈夫だ」 自分でも驚くほど低い声が出た。慰めというより、今この場で崩れないための支えだった。 莉桜は返事をしない。ただ、顔色を失ったまま、直樹の袖の近くで小さく身を縮めている。 駅の放送はまだ乱れ、遠くの足音がホームを横切る。人影は動いたようにも見え、消えたようにも見えた。だが確かなのは、莉桜があれほどまでに怯える理由が、もう直樹の前に姿を現し始めているということだけだった。 車内の静けさは変わらない。それでも、挑発の裏に隠れていた本当の顔が、今まさに剥がれ落ちた気がした。
終電車内の挑発
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