噂は、翌日の朝にはもう教室の片隅でひそひそと形を変えていた。誰かが心菜をちらりと見ては、意味ありげに目をそらす。そのたびに、心菜は自分の机に視線を落としたまま、背中がむずがゆくなるのをこらえた。 そんな空気を、桜奈は真正面から受け止めた。休み時間になると、わざと大げさなくらい明るい声で教室の話題を拾い、心菜が置いていかれないように会話の中心へ引き戻す。昨日までなら、心菜の慎重な動きだけが注目を集めていたはずだった。だが桜奈が笑いを混ぜると、その視線は少しずつ散っていく。 「心菜、そこ取って。あ、いや、そっちじゃなくて、普通に手伝って」 わざとらしくもないのに妙に目立つ言い方だった。周りの数人がくすりと笑い、教室の空気が少し和らぐ。結莉もそれに合わせて、心菜にしか分からないような小さなうなずきを返した。 心菜は、ありがたさと気恥ずかしさの間で唇を結んだ。これで噂の角が丸くなるなら、それだけで十分だと思った。ところが、桜奈の軽いひと言が思わぬ方向へ転がる。 「心菜って、ほんとに慎重だよね。何か隠してるんじゃなくて、隠し方が上手いだけっていうか」 教室が一瞬だけ静かになった。冗談のつもりなのは伝わるのに、言葉だけが妙に鋭い。数人の目が心菜へ集まり、今度は別の誤解が生まれかける。秘密を守るために支えてくれているはずの空気が、また別のざわめきに変わりそうになった。 心菜はすぐに顔を上げた。 「隠してるっていうより、今日は何となく落ち着かないだけ。昨日から変だったのは、その、私がどじったせい」 言い切った瞬間、頬が熱くなる。けれど、あえて自分から少しだけ失敗談にしてしまえば、妙な想像は育ちにくい。心菜の言葉に、周りの緊張がふっとゆるんだ。 「そっか、心菜らしいな」 誰かが笑い、別の誰かが肩をすくめる。桜奈はしまった、という顔を一瞬だけ見せたが、すぐににやりと笑い、心菜の言葉に乗った。 「でしょ。だから変に深読みしないで、今日はみんなで普通にいこう」 そのひと言で、教室の空気はようやく元の軽さを取り戻した。心菜は胸をなで下ろしながらも、今度は自分が場をほどく側に回ったことを知る。隠されるだけではなく、言葉を選んで誰かの勘違いをほどく。その役目が自分に来るなんて、少しだけ意外だった。 窓の外では、淡い光が白く揺れていた。心菜は机の上の教科書を揃え、桜奈と結莉に短く目を合わせる。教室のざわめきはまだ小さく続いていたが、もうさっきまでの棘はない。心菜はその変化を感じながら、次に何を言えばいいのかを、静かに考え始めた。
忘れ物より大事な約束
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