翌朝の商店街は、開店前の静けさに包まれていた。美晴は貸してもらったエプロンの紐を結び直し、惣菜店の奥で並ぶ紙袋を見上げた。揚げ物の香りと、温めた煮物の甘い匂いが混じっている。思っていたより狭い店内に、配達用の箱やメモがせわしなく置かれていて、どれがどこへ行くのか一目ではわからない。 「最初はこれを近所の三軒へ。道は簡単だから、落ち着いてね」 店主がそう言って差し出した伝票を、美晴は両手で受け取った。だが読み慣れない地図の書き込みと、似た名前の届け先が並んでいるせいで、胸の奥がじわりと重くなる。急がなければならないと思うほど、指先が頼りなくなった。 案の定、最初の取り違えは小さな呼び間違いから始まった。美晴は笑顔を作って謝り、袋を抱え直す。すると、店の外へ戻る途中で次の注文メモが風にあおられ、ひらりと足元へ落ちた。拾い上げた紙には、別の家への追加の品が書かれている。ひと息遅れたが、置き去りにするよりましだと思い、美晴は店へ引き返した。 そのころ、空の色は少しずつ鈍くなり始めていた。遠くで低い雷が鳴った気がして、店先に干してあったのぼりが急にしなった。ぽつり、と頬に当たった冷たい粒が、次の瞬間には本降りの雨へ変わる。道路に跳ねる水音で、商店街の声がかき消され、美晴の前髪まで濡れた。 「すみません、少し遅れます」 そう言いながらも、彼女は足を止めなかった。届け先のひとつは角を曲がった先、もうひとつはアーケードの外れ、さらに別の家は雨を避けた細い路地の先にあった。順番を組み替え、濡れにくい袋から先に渡すようにして回ると、受け取った相手は驚いた顔をして、それでも笑ってくれた。 「こんな雨なのに、ちゃんと来てくれるのね」 そのひと言で、美晴の肩から少しだけ力が抜けた。間違えた伝票も、濡れた靴も、全部が失敗のまま終わるわけではない。謝りながらも、次にどう動くかを考えればいい。そう思えるようになると、足取りは不思議と軽くなった。 店へ戻るころには、エプロンの端まで水滴が染みていた。店主は怒る代わりに、濡れた髪を見て苦笑する。 「大変だったね。でも、逃げずに全部回ったのはえらいよ」 美晴は息を整え、まだ少し震える手で伝票を揃えた。商店街の雨はやんでも、店の中には忙しさの熱が残っている。彼女はその熱の中で、小さくうなずいた。
秘密派遣
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