資料室の扉は、会場のざわめきから少し離れただけで、まるで別の空気に変わっていた。並んだ棚は薄い照明に灰色の影を落とし、紙の束が積まれた机だけがやけに白い。美晴は名札の紐を指で押さえ、心臓の音がうるさくならないよう息を整えた。さっき聞こえた断片が、まだ耳の奥で乾いたまま残っている。 受付の補助を抜け出したのは、ほんの一瞬のはずだった。けれど、一瞬でも紙は待ってくれない。机の上に置かれた帳票をめくると、父の会社の名前が小さく印字された欄が目に入った。数字の並びは複雑で、契約日と納品条件の欄が食い違っている。表向きには合っているように見えるのに、別紙と照らすと、肝心の前提がずれていた。これでは、約束したはずの支払いの根拠が揺らぐ。 美晴は唇を噛んだ。単なるミスではない。誰かが見落とした、では済まされない薄さがある。父が黙って耐えていた顔が、机の紙の白さに重なった。 「どうして、こんな」 声にならない声が喉の奥で止まる。怒りより先に来たのは、困惑だった。相手を責める材料があるのか、それとも父が気づけなかっただけなのか、今の自分には判断できない。それでも、この食い違いを見過ごせば、真相に触れる前に全部が曖昧なまま終わってしまう気がした。 美晴は棚の脇で足を止め、商店街で身につけた癖を思い出した。配達先が違っても、袋の中身や家の呼び名や、誰が受け取るかを聞けば線はつながる。人の話は、ひとつの答えより、少しずつずれた断片に本音が混ざる。だからこそ、聞く。 帳票の端に視線を走らせながら、彼女は会場に戻る通路の向こうで、先ほどの担当者たちが資料を抱えたまま立ち話をしているのを見つけた。表情は硬いが、敵意とは違う。むしろ、言いたいことを飲み込んだまま困っているように見える。美晴は胸を押さえ、距離を詰めすぎない位置から自然に声をかけた。 「すみません、この件って、前から同じ条件でしたか」 問いかけは慎重だった。相手の目がこちらへ向く。美晴は逃げずに、でも責めずに、目を合わせた。商店街で何度も繰り返したやり方だ。強く押せば閉じる扉も、相手の困りごとを先に受け止めれば、少しは開くことがある。 担当者の一人が、資料の角を指でなぞった。言いよどむ気配の向こうに、確かめたい何かがある。美晴はその沈黙の糸口を、両手でそっと受け取るように立ち尽くした。
秘密派遣
全年齢小説ID: cmp0e8f7g071n01nog91r25si
