廊下のざわめきが去ってもしばらく、遥奈は戸口の前から動けなかった。胸の奥に残るのは、さっきまで聞こえていた騒ぎの余韻ではない。ユウセイが暗がりへ向けた、あの不自然な警戒だった。 衣装箱の陰へ戻り、布を少しだけめくる。ユウセイは待っていたように身を寄せたが、遥奈の指先が触れるより早く、薄い体をわずかに伸ばした。もう甘えるだけの仕草ではない。彼はまるで、彼女の不安を外へ逃がすように、部屋の空気を探っている。 「今の、やっぱり変だったわよね」 小さくこぼすと、ユウセイは一度だけ身を震わせた。その反応に、遥奈は唇を引き結ぶ。自分の思い違いではなかった。見えない何かが、この屋敷の中をうろついている。 それを確かめたくて、彼女は使われなくなった階段を下りた。人の気配が薄い場所ほど、古いものは眠りを続ける。地下へ近づくほど空気は冷え、石壁に触れた指先がじんと痛んだ。埃をかぶった扉を押し開けると、古い記録棚が並ぶ狭い部屋が現れる。遥奈は息を殺し、灯りを近づけた。 棚の奥で、革表紙の帳面がひとつ、半ば崩れるように倒れていた。表紙には擦り切れた家紋と、かすれた文字。年代も持ち主も分からないが、屋敷の古い言い伝えに触れるには十分だった。彼女は慎重に頁をめくる。紙は乾いて脆く、触れるたびに細かな音を立てた。 そこに記されていたのは、屋敷を守るために封じられた存在の話だった。地下の泉に縁のある守り手。代々、人の手で眠りを守られ、必要なときだけ目覚めるもの。遥奈は読み進めるうちに、指先の冷たさを忘れた。 小瓶の中で見つけたあの生き物。食べ物を口にせず、声とぬくもりにだけ応え、異変にだけ鋭く反応したユウセイ。偶然の拾い物だと思っていた存在が、屋敷の歴史に連なる名もなき守り手かもしれない。そんな考えが胸を打つ。 ページの隅には、封印を解く条件ではなく、守り手が衰えたときの兆しが走り書きのように残っていた。灯りに寄るのではなく、人の悪意にざわめくこと。家の内側にある歪みを先に察すること。遥奈はそこを何度も見返し、静かに息を呑む。今の屋敷で起きていることと、あまりに重なって見えたからだ。 背後で、暗い棚の間がやけに静まり返った。振り向いても誰もいない。ただ、ユウセイを抱いていないはずの腕に、さっきまでとは違う重みを感じる。守られるために育てたのだと思っていたのに、記録はまるで逆のことを告げていた。 遥奈は帳面を胸に引き寄せる。紙の匂いと古い埃の匂いの向こうで、遠い水音のようなものがかすかに響いた気がした。顔を上げると、ユウセイは彼女の掌の内で静かに波打ち、深い場所を知る者のような気配を見せている。遥奈はその動きを見つめたまま、息を整えた。 もし本当に、彼がこの屋敷を守るための系譜に連なる存在なら。そう思ったところで、彼女はページの上に落ちた自分の影を見つめた。答えはまだ、そこにはない。けれど確かに、今まで見えていなかった輪郭が、暗がりの中で少しずつ浮かび上がっていた。
地下のトモダチ
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