エラベノベル堂

湯けむり眼鏡騒動

全年齢

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3章 / 全10

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盃を重ねて火照った頬のまま席を立つと、廊下の空気は思ったよりひんやりしていた。華澄は帯の下あたりに残る温かさを抱えたまま、ふわふわする足取りで旅館の奥へ向かう。眼鏡は部屋に置いたままだった。宴席で外したあと、そのまま戻しそびれたことに気づいてはいたが、今さら取りに戻るほどでもないと、少しぼんやりした頭で決めてしまっていた。 足元の灯りはあるのに、廊下の先は薄く滲んで見える。壁に下がる案内札も、湯気の立ちのぼる気配にぼやけて、文字の輪郭が定まらない。華澄は立ち止まり、顔を近づけて目を細めたが、読めないものはやはり読めなかった。女湯はどちらだろう、と考えているうちに、曲がり角の向こうから同じような木戸が見えてくる。 右だった気がする。いや、さっきの灯りの色は左だっただろうか。迷っている自覚はあるのに、酔いのせいで判断が妙に曖昧だ。華澄は静かに深呼吸し、もう一度札を確かめようとして、結局よく見えずに首をかしげた。 そのとき、戸の向こうからかすかな話し声が漏れてきた。人がいる。そう気づいて、華澄は少し安心した。誰かがいれば、入口は合っているはずだ。そう思い込んで、彼女は一歩近づく。 ところが、湯気越しの白い揺らぎは、ただの人影なのか、それとも違うものなのか、華澄には判別できなかった。布の置かれた台に見えたものも、実際には別の何かかもしれない。けれど本人の中では、ただ少し入り口が込み合っているだけの話だった。 「すみません、こちらで合っていますか」 小さく声をかけてみる。返事は聞こえた気がしたが、どこから返ってきたのかもはっきりしない。華澄は困ったように眉を寄せ、もう一度札を見上げた。読めない。見えない。なのに、自分が何か大きく勘違いしているとは、まだ少しも思っていなかった。

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