「こちらで合ってるのかなあ」 華澄が首をかしげた、その瞬間だった。白く霞む向こう側で、思ったより多くの気配が一斉にこちらを向いた気がして、彼女は足を止める。湯気と薄暗さが重なって、そこにあるはずのものまで、すべて輪郭を失っていた。人影はぼんやりといくつも重なり、備え付けの棚か何かに見えた木の影も、よく見れば違うのかもしれない。だが酔いの残る頭では、そこまで確かめる余裕がない。 華澄は入口のすぐ脇にある低い台へ視線を向けたつもりだった。けれど彼女の目には、それが脱いだものを置く場所に見えたのか、空いた席に見えたのか、自分でも判然としない。ただ、先に来ている人たちの邪魔にならないように端へ寄ろうとした、その一歩が少しだけずれてしまう。 「あの、そっちじゃなくて」 誰かの声がかぶさった。優しく制されたのだと分かったのは、声が少し上ずっていたからだ。華澄は驚いて立ち止まり、今度は反対側を見ようとして、さらに迷う。目の前にあるのが何なのか分からないまま、失礼のないようにと身体を縮めるほど、動きがぎこちなくなる。 「あ、ちが、ちがいましたか」 慌てて引いた足先が、入り口の縁をかすめた。そこへもう一人が、笑いをこらえたような声で重ねる。 「そこ、入る場所じゃないよ。着替えは手前」 その言葉で、周囲の空気が一気にざわついた。誰かが慌てて笑い、誰かが大丈夫ですよと宥め、別の誰かが華澄の視界に入りそうなものを手で隠すようにして、あちらですと方向を示す。けれど彼女には、その示された先までもがぼやけている。どの声も親切なのに、いっぺんに飛び込んできて、かえって頭の中が白くなる。 「すみません、見えなくて」 口に出した途端、自分でも情けなくなるほど小さな声だった。視線を伏せると、足元の石の模様すら曖昧で、どちらへ向けばいいのかますます分からない。先客たちも、さすがにただの勘違いだと気づいたらしく、慌てながらも場を収めようとする気配が伝わってくる。 「こっちこっち、落ち着いて。大丈夫だから」 その声に促され、華澄はようやく自分がとんでもなく場違いなところへ入りかけていたのだと悟る。顔が熱くなり、耳の先まで火照るのが分かった。恥ずかしさで息の仕方までおかしくなりそうなのに、どうしてそんな場所へ行きかけたのか、自分でもうまく整理できない。ただ、周りの女性たちが次々に声をかけ、どうにか正しいほうへ導こうとしてくれていることだけは分かった。 けれどその親切が増えるほど、華澄はますます恐縮してしまう。すみません、と何度も口の中で繰り返しながら、肩をすぼめたまま、指し示された明るいほうへおずおずと身体を向けた。
湯けむり眼鏡騒動
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