エラベノベル堂

湯けむり眼鏡騒動

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5章 / 全10

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華澄は、返された声に従って明るいほうへ半歩ずつ向き直った。けれど、視線の先は相変わらず白く滲んでいて、どこまでが壁でどこからが人なのか、もう自信を持てない。さっきまでの慌てようがまだ身体に残っていて、呼吸も少し浅い。顔の熱だけが妙に鮮明で、耳の奥までじんじんしていた。 「大丈夫、そこまで怖がらなくていいから」 さっき制したのとは別の、落ち着いた声がした。華澄がそちらを向こうとしても、輪郭はやはりぼやけたまま、それでも相手が少し身をかがめている気配だけは伝わる。次の瞬間、ひんやりした感触が手元に触れた。小さな器だった。指先に収まるように支えられて、ようやく自分の手がぶらぶらと宙に迷っていたのだと分かる。 「あ、ありがとうございます」 声まで裏返りそうになり、華澄は慌てて頭を下げた。すると、近くで小さな笑い声がいくつか重なる。からかわれているわけではない。むしろ、緊張をほどくみたいな、やわらかな笑いだった。 「眼鏡、外してるとつらいよね」 「湯気もあるし、余計に分かりにくいでしょ」 言われて、華澄ははっとした。そうだ。自分はもともと、眼鏡がなければ遠くどころか、すぐ近くの輪郭も曖昧になる。宴席で外したまま来てしまい、酔いもあって、その不便さをすっかり甘く見ていた。今さら思い知るなんて、あまりにも間抜けだ。 「……私、ほとんど見えてなかったんですね」 ぽつりとこぼすと、さっきまで慌ただしかった空気が少しだけ静かになった。誰かが、そういうことなら無理しないで、と言い、別の誰かが洗い場はこっちと穏やかに案内する。華澄は肩を縮めたまま、恥ずかしさで涙がにじみそうになるのをこらえた。けれど、その声はどれも急かさない。騒がしくなりかけた場を、皆がそれぞれの調子でやわらげてくれている。 そのとき、同僚の女性がすぐそばに立った。華澄が宴会で何度か言葉を交わした相手だった。さっきまでより近い距離で、彼女は困ったようでも、どこか面白がるようでもない顔をしている。 「ここ、手伝うよ。まずは落ち着いて、これを持って」 差し出されたものを受け取ると、華澄はようやく一息つけた。ひとりで頑張ろうとしていたのが、少しだけほどける。自分では見えていなかったことを、誰かが当然のように補ってくれる。その事実が、恥ずかしさの底に小さなあたたかさを落とした。 「すみません、迷惑ばかりかけて」 「迷惑じゃないよ。見えないなら見えないで、言ってくれたほうが助かるし」 その返事に、華澄は唇を噛んだ。視界はまだ頼りないのに、周りの気配だけは少しずつやさしく輪郭を持ちはじめる。湯気の向こうで立つ人影も、もう先ほどのような恐ろしさはない。声の調子も、空気の揺れ方も、どこか落ち着いている。 華澄はようやく、見えないまま突き進もうとした自分の無謀さを実感した。けれど同時に、誰かにひと声かけるだけで、こんなにも世界が違って見えるのだとも知る。真っ赤になった顔を隠すようにうつむきながら、彼女は同僚の導くほうへそろそろと足を向けた。騒がしさはまだ残っている。それでも、その中心にはもう、少しだけ温かな笑いが混じっていた。

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