エラベノベル堂

湯けむり眼鏡騒動

全年齢

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8章 / 全10

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華澄が顔を上げると、休憩室のにぎやかな気配の向こうで、先輩の一人が 「確認してみようか」 と立ち上がった。誰に言われたわけでもないのに、皆が自然とその流れに乗る。さっきまで彼女を包んでいた照れくささはまだ残っていたが、今度はそれを笑い飛ばすより先に、ちゃんと受け止めてもらえている気がした。 数人で廊下へ出ると、旅館の空気は休憩室より少し冷えていた。華澄は水の入ったコップを持ったまま、同僚たちの後ろに続く。ぼやけた視界の中でも、フロントの灯りだけは少し明るく見えた。そこへ向かう途中、先輩が壁際を指さし、案内の札を確かめるように目を細める。 「ほら、ここ。入口の表示、思ったより奥だね」 「しかも照明、ちょっと暗いな」 別の同僚が肩をすくめた。華澄はその場に立ち止まり、言われた通りに顔を近づける。眼鏡のない目にはまだ細かな文字が滲んでいたが、確かに、札の位置は視線より少し高く、しかも曲がり角の影に隠れるように置かれている。ここまで来ないと気づきにくい。迷ったのは、自分がひどく不器用だったからだけではなかった。 「これじゃ、急いでると見落としますよね」 華澄がぽつりと言うと、先輩はうなずいた。 「だよね。あそこ、もう少し分かりやすければよかったのに」 照明の弱さと案内板の位置の悪さが重なって、夜更けの廊下は思った以上に頼りない。文字が読みにくいだけでなく、向かう先そのものが曖昧に感じられる造りだった。華澄は胸の奥で小さく息を吐く。自分だけが場違いで、ひとりで大きく失敗したのだと思っていた。でも今、同僚たちも同じように眉を寄せている。 「華澄ちゃんの目が悪いのもあるけど、これは誰でも迷うよ」 そう言われて、彼女はようやく視線を落としたまま、小さく笑った。 「……少し、安心しました」 「安心していいよ。むしろ見えやすくしてほしいくらいだし」 軽い冗談に、周囲からも短い笑いが起きる。華澄はその音を聞きながら、頬の熱が少しずつ引いていくのを感じた。自分の弱さを打ち明けたからこそ、見えてきたものがある。恥ずかしさの底にあったのは、責められる怖さだけではなく、理解されたいという願いだったのかもしれない。 フロント前の灯りはまだぼんやりしている。それでも、誰かと並んで見れば、迷うほど暗くはない。華澄はコップを持ち直し、同僚たちと並んで案内札を見上げた。

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