華澄は休憩室のソファに腰を戻したまま、差し出された眼鏡をそっと受け取った。指先に乗るだけで、さっきまで曇っていた世界に少し形が戻る気がする。鼻あての感触が懐かしくて、彼女は思わず息をついた。 「ありがとうございます」 そう言うと、声が必要以上にか細くなった。けれど、目の前にいる同僚たちは、誰ひとりその弱さを笑わない。ただ、さっきまでの騒ぎを思い出したように肩を揺らし、互いの顔を見てくすくすと笑っている。 「いやあ、あれはびっくりしたよ」 「こっちが先に入るところだったかと思った」 「案内、ほんと分かりにくかったしね」 笑い声は軽いのに、華澄の胸には妙なあたたかさが残った。彼女は眼鏡をかけ直し、今度こそ輪郭の戻った同僚たちを見た。ついさっきまで、自分だけが恥ずかしくて、皆の輪からこぼれてしまうのではないかと怯えていたのに、今は違う。からかわれても、そこに悪意がないと分かる。気を遣われすぎるのでもなく、突き放されるのでもない。ちょうどいい距離で、同じ出来事を一緒に笑ってくれている。 「私、ずっと、見えないことを隠さないといけないと思っていました」 ぽつりとこぼすと、室内の空気が少しだけ静かになった。華澄は自分でも意外なほど素直に続ける。 「迷惑をかけたくなくて、平気なふりばかりしていて。でも、結局それで余計に大事にしてしまって」 「そんなの、隠さなくていいのに」 誰かがあっさり言った。 「言ってくれたほうが助かること、あるでしょ」 その言葉は、拍子抜けするほどまっすぐだった。華澄は眼鏡の奥で瞬きをして、ようやく自分の肩が下がっているのに気づく。隠すことばかり覚えていたせいで、頼ることを忘れていたのかもしれない。弱さを見せるのは恥ではなく、ただの情報なのだと、今さらながら理解し始めていた。 「それにしても、あの慌て方はちょっと伝説だな」 先輩が笑うと、別の同僚がすぐに続ける。 「今日の一番は、あの自信満々な足取りだったよね」 「見えてないのに進むのは、さすがに無茶」 華澄は顔を覆いたくなったが、もう逃げたくはなかった。恥ずかしい。けれど、それを一緒に笑える相手がいる。そう思うと、胸の奥に固まっていたものがほどけていく。 「……もうしません」 「うん、それがいい」 誰かが間髪入れずに返し、皆がまた笑った。笑われているのに、置いていかれる感じはしない。華澄は眼鏡の位置を直し、輪の中で小さく息を吸う。必要以上に隠さなくていい。そのことが、夜の深さの中で静かに身体へ染み込んでいった。
湯けむり眼鏡騒動
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