「……ちょっと、水飲んでくる」 亮がそう言ったのは、誰に向けたのでもない独り言みたいな声だった。布団の端で半分起きたままの空気は、まだぬるくて落ち着かない。眠気も酔いも中途半端に残っていて、このまま黙っていれば、さっきの失態まで一緒に布団へ押し込められそうだった。 翔太が枕元で目をこすりながら、ぼそっと返す。 「勝手にしろ。……でも、音立てるなよ」 「お前が言うな」 亮は小声で突っ込み、布団からそっと抜け出した。畳の冷たさが足の裏に触れると、少しだけ頭が冴える。襖の向こうは、宿の気配がしんと沈んでいた。夜の終わりと朝の気配のあいだみたいな、妙に静かな時間だ。 廊下に出ると、足音が思った以上に響きそうで、亮は思わず息を止めた。壁の灯りは薄く、向こうの端までは見えない。それなのに、自分の心臓だけがやたら元気に鳴っている。 「水、だけ……」 独り言のつもりだったのに、口にした瞬間、余計に不自然だった。 そのとき、隣の扉がかすかに開く音がした。 亮が振り向くより先に、もう一人の影が廊下へ滑り出てくる。 「……あ」 短い声が重なった。暗がりの中でも、誰だかはすぐにわかった。翔太だった。 亮は一瞬で固まる。さっきまで同じ布団にいて、しかもとんでもない誤解の当事者だった相手が、なぜよりによって今出てくる。 「お前……」 「お前こそ、なんで出てんだよ」 翔太も同じくらい動揺しているのが、声だけでわかった。寝起きの低い声が廊下に落ちるたび、やけに響いて聞こえる。 亮は、手近な言い訳を探して口を開いた。 「いや、その、水だろ。喉乾いたし」 「……俺も」 「は?」 「喉、乾いた」 それだけ言って、翔太は視線を泳がせた。明らかに気まずい。だが、亮も同じくらい不審だった。さっきのことを隠そうとするあまり、どちらも妙にぎこちない。 「お前、なんでそんなに不自然なんだよ」 「そっちもだろ。さっきから声がでかい」 「でかくない。宿が静かすぎるだけだ」 言い返した亮は、自分で自分に腹が立った。たしかに、ここは小さな声でも十分通る。なのに、なぜか二人とも廊下の真ん中で立ち尽くし、無意味に存在感だけが増している。 翔太が腕を組みかけて、途中でやめた。 「……あのさ」 「なんだよ」 「もう、あれは忘れろよ」 その言い方が、かえって忘れられない方向へ寄せてくる。亮は思わず顔をしかめた。 「忘れてるわけないだろ」 「だよな」 「だよな、じゃねえ」 なのに、二人とも笑うわけでも怒るわけでもなく、ただ小さく息を吐いた。廊下の静けさが、気まずさを何倍にも膨らませる。灯りの下で立ち尽くす自分たちが、妙に大きな影に見えた。 「……先、行くか」 翔太がようやくそう言う。 亮は頷きかけて、ふと扉のほうへ目をやった。中にはまだ、他の二人が眠っている。いや、眠っていないかもしれない。さっきの騒ぎで、誰かが起きかけた気配もあった気がする。 けれど、確かめる勇気はなかった。 「そうだな」 亮は、ひとつ息を吸ってから答えた。水を飲みに出ただけなのに、妙な空気だけが廊下に残る。二人は顔を見合わせたまま、次の一歩をなかなか踏み出せずにいた。
湯上がり勘違い夜話
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