「……入るぞ」 翔太がそう言って、朝食会場の引き戸を少しだけ開けた。亮はその背中を見ながら、まだ胃のあたりに残る気まずさを押し込める。畳の部屋とは違う、湯気と味噌の匂いが混じる空間に足を踏み入れた瞬間、昨夜の騒ぎが夢みたいに遠のきかけた。 「うわ、ちゃんと朝ごはんだ」 結衣が小さく声を上げる。卓には焼き魚、温泉卵、湯豆腐に味噌汁。静かな会場なのに、料理だけがやけに堂々としていた。 「こういうの見ると、急にまともな人間に戻る気がする」 奈緒が言うと、亮は苦笑した。 「戻る気がするだけで、戻れてないだろ」 「それは亮のほうじゃない?」 結衣がすぐに返して、少しだけ空気が緩む。四人は席に着いたが、昨夜の件があるせいで、どの顔も微妙にぎこちない。誰かが箸を持つたび、視線が一瞬だけ泳いだ。 「……先に、食べよっか」 翔太の一言で、全員が小さく頷く。味噌汁をひと口飲んだ亮は、思わず肩の力を抜いた。熱すぎず、薄すぎず、空っぽの頭にちょうどいい。すると、隣で結衣もほっとしたように息を吐く。 「おいしい。こういうの食べると、ちょっと笑えるかも」 「笑えるかも、じゃなくて笑っていいんだよ」 奈緒が言い、結衣は困ったように肩をすくめた。 「だって、まだちょっと恥ずかしいし」 「みんな同じだろ」 翔太が魚をほぐしながら呟く。亮はその言葉に、箸を止めた。 「でもさ、たぶん俺だけがああなったと思ってた」 「え?」 結衣が目を瞬かせる。 亮は少しだけ顔をしかめて、味噌汁を見つめたまま続けた。 「暗い中で、間違えたのは俺だけだって。翔太も奈緒も結衣も、ちゃんと覚えてるもんだと思ってた」 「私も」 奈緒が、予想外に素直な声で言った。 「私だけは絶対に見間違えてないって思ってた。でも、朝になって考えると、そもそも布団の位置からして自信ない」 その言葉に、結衣が目を丸くする。 「え、奈緒も?」 「うん。だから、亮だけが悪いみたいな流れになると、ちょっと違うかなって」 翔太がふっと笑った。 「俺も、最初に呼ばれたとき、相手が誰かちゃんと確認してなかった」 「それ、今さら言う?」 亮がつっこむと、翔太は肩をすくめた。 「言うだろ。昨日の時点で、みんな似たようなもんだった」 結衣はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吸った。 「……私も、誰がどこにいるか見たって言い切れない」 その一言で、四人の間にあった見えない線が、少しだけほどけた。 「じゃあ、結局」 奈緒が箸を置いて、困ったように笑う。 「みんな、同じくらい勘違いしてたってこと?」 「そういうことになるな」 翔太が即答する。亮も、今度は迷わず頷けた。 「だったら、俺だけが変だったわけじゃないのか」 「そこ安心するところ?」 結衣が吹き出す。 「でも、安心はするでしょ。誰か一人がとんでもなくおかしかったわけじゃないなら」 「それはまあ」 亮は照れを隠すみたいに茶碗を持ち上げた。温かい白米が、妙にありがたい。 奈緒が口元を押さえて笑う。 「なんかさ、今こうして話すと、もう怒る気なくなるよね」 「怒ってないし」 「でも、恥ずかしかったのは本当」 「それも本当」 翔太がそう言うと、結衣もついに笑った。 「うん。私、最初はすごく気まずかったけど、みんな同じだったなら、もういいかも」 亮はその言葉に、ようやく胸の奥が落ち着くのを感じた。誰かが悪いわけでもなく、誰もが寝ぼけていて、しかも全員が少しずつ勘違いしていた。そうわかるだけで、昨夜の騒ぎはただの恥ずかしい失敗に変わる。 「……じゃあ、朝ごはん食べよう」 亮が言うと、誰も反対しなかった。 湯気の向こうで、四人の表情がやわらぐ。謝りすぎなくていい。からかいすぎなくていい。たぶんもう、昨夜のことを持ち出しても、ちゃんと笑える。 「ねえ、翔太」 結衣がふと思い出したみたいに言う。 「なに」 「今度からは、寝る前にちゃんと確認しようね」 「……それは絶対だな」 奈緒が肩を揺らして笑い、亮もつられて息を漏らした。会場の朝は静かだったが、その静けさの中で、四人の空気だけがようやく本当の意味で落ち着いていく。焼き魚の香ばしさと、少し遅れてくる笑い声。ぎこちなさはまだ少し残っているのに、もうそれさえも、旅のひとつの味みたいだった。
湯上がり勘違い夜話
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