ドアが閉まると、廊下の騒がしさがすっと遠のいた。小さな客室は、二人分の気配で思ったより狭く感じる。美奈はベッド脇に荷物を置き、できるだけ隅へ寄った。真人はというと、ネクタイを緩めながら壁際のデスクを見下ろし、眉間に薄い皺を残したままだった。 「……やっと落ち着けると思ったのに」 美奈がぽつりと言うと、真人は片目だけこちらへ向けた。 「落ち着くな。まだ仕事は終わっていない」 「わかってますけど」 「わかっている顔ではない」 その言い方に、さすがに少しむっとする。だが、次の瞬間、真人はデスクの引き出しを開けて固まった。 「……ない」 「何がですか」 「筆記具がない。メモ帳もだ」 「え、部屋にないんですか」 「ないから困っている」 美奈は思わず顔を見合わせた。会議資料を並べるときも、謝罪文を考えるときも、彼はいつも自分で何でもそろえている印象だった。それが今は、ただの不機嫌な人に見える。 「神崎さんって、そんなことまで気にするんですね」 「当たり前だ。地方の宿は、信用すると痛い目を見る」 「ふふっ」 漏れた笑いに、自分でも驚く。真人はすぐに眉をひそめたが、次の瞬間には何も言わず、机の上の案内カードを眺めていた。 「……何がおかしい」 「いえ、神崎さんって、完璧に見えて案外、こういう備えが雑というか」 「雑ではない。必要なものが置かれていなかっただけだ」 「それ、言い方がもう負けてます」 美奈が肩を震わせると、真人はわずかに目を細めた。しばらく沈黙が落ちる。だがその沈黙は、さっきまでの刺々しさとは少し違っていた。 「……地方出張のたびに、だいたい何かを失う」 「何か、って」 「歯ブラシだったり、充電器だったり、靴下だったりだ。前回はワイシャツを裏返しのまま鞄に入れていた」 「えっ、神崎さんが?」 「笑うな」 「笑いますよ、それは」 堪えきれずに吹き出すと、真人は一瞬だけ目を見開いたあと、呆れたように息を吐いた。けれど、その口元はほんの少し緩んでいる。 「……家事も得意ではない」 「想像つきません」 「そうだろうな。だが、現実だ。皿洗いは途中で順番を間違えるし、洗濯は色分けを忘れる。去年は旅先で靴下だけ乾かし損ねた」 「それ、かなり深刻じゃないですか」 「だから言った。地方の宿は信用するな、と」 美奈は笑いながら、なぜか胸のあたりが少しだけ軽くなるのを感じた。厳しくて怖いだけの人だと思っていたのに、こんな不器用なところがあるなんて。 真人はひとつ咳払いをして、すぐに顔を引き締め直した。 「だが、明日の謝罪は絶対に失敗できない」 その声で、部屋の空気がまたきりりと締まる。美奈も思わず背筋を伸ばした。 「……はい」 「今は笑っていてもいい。だが、明日は別だ」 「わかっています」 「わかっているなら、資料をもう一度確認する。間違いがあれば、この場で潰す」 真人がデスクへ向かうと、さっきまでの気安さが嘘のように消えた。美奈は笑みを引っ込め、鞄から紙束を取り出す。部屋の緊張はまだ残ったまま、それでもさっきよりは少しだけ息がしやすかった。
謝罪出張、ふたり部屋
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