部屋を出るときよりも、廊下の空気は少し湿っていた。美奈はスリッパを履きかけて、足元を見下ろして止まる。真人もまた、片方の靴を脱いだまま扉の外で眉を寄せた。 「案内が変わっている」 「え?」 壁際の掲示板には、共同利用の時間帯が貼り替えられていた。だが、その上に新しく留めたはずの紙が、半分めくれている。どうやら故障か何かで、受付の説明が急きょ書き換えられたらしい。 「順番を調整してくれ、だと」 真人が読み上げる。短く舌打ちしてから、廊下の奥へ視線をやった。 「先に行け。俺は待つ」 「いえ、私が待ちます」 「相沢」 「だって、神崎さんの方が疲れてますし」 その一言に、真人はわずかに目を細めた。だが譲る気はないらしい。 「仕事の優先順位の話だ。おまえは先に済ませろ」 「でも、共同利用ですよね。急いでも意味ないような」 「意味がある。待ち時間は短い方がいい」 言い合いながら、二人は結局、廊下を行ったり来たりすることになった。裸足に近い足裏に、冷えた床がひやりと触れる。美奈は慌てて戻ってきて、部屋の中へ置き忘れたタオルを取りに入った。真人もまた、必要な物を確認すると、無駄のない足取りで引き返す。 「すみません、こんなに何度も」 「謝るな。歩く回数が増えただけだ」 「それ、慰めになってますか」 「ならなくていい」 言い返されるたびに、ほんの少しだけ息が詰まる。それでも、同じ場所を何度も行き来しているうちに、さっきまでの気まずさに、別の苛立ちが混ざってきた。待てと言われても落ち着かない。何をしても中途半端で、時間だけがじりじり削られていく。 美奈はようやく鞄からスマートフォンを取り出した。 「……夫に、ひとことだけ連絡しておきます」 真人は何も言わなかった。ただ、少しだけ横に寄って、通路を空ける。 美奈は壁にもたれて画面を開いた。だが、送信の前に電波の表示がふらつく。一本立ったと思えば消え、また戻る。そのたびに指先が焦る。 『今、少し大変で——』 打った文が途中で止まる。読み込み中の輪が回ったまま、画面が固まる。 「……また」 もう一度、文字を打ち直す。今度は少し長めに、落ち着いた文章にしようとした。けれど送信の前に接続が途切れ、アプリが真っ白になる。 「なんで……」 声に出した瞬間、苛立ちが胸の奥で跳ねた。ここまで来て、たった一言が届かない。それだけのことなのに、ひどく腹が立つ。 「電波が悪い」 真人が低く言った。 「見ればわかります」 思わず語気が荒くなる。美奈は自分でも驚いて、唇を噛んだ。 「すみません、違います。私、ちょっと」 「苛立つな」 「だって、連絡したいだけなのに」 「だから、落ち着け」 その声が妙に静かで、逆に美奈の焦りを浮かび上がらせた。スマートフォンを握る手に力が入る。送れない文面、途切れる表示、廊下の冷たさ。全部が重なって、息の仕方までわからなくなる。 真人は少し間を置いてから、短く言った。 「ここでは無理だ。少し場所を変えろ」 「……でも」 「今は、送信できる形を作る方が先だ」 美奈は画面を見つめたまま、小さくうなずくしかなかった。思うようにいかないことばかりが増えていく。なのに、隣にいるこの人は、苛立ちながらも妙に冷静で、それがまた悔しい。 やがて大浴場側の案内灯が、ぼんやりと点滅した。美奈はそれを見上げ、深く息を吸う。送れない連絡文の続きは、まだ画面の中で止まったままだった。
謝罪出張、ふたり部屋
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