窓際に寄ると、さっきまでの廊下の冷えが少しだけ和らいだ。薄いカーテンの隙間から漏れる街の灯りが、床に細い線を引いている。美奈はスマートフォンを握ったまま、画面の通信表示を何度も見た。さっきから送れないままの文が、胸の奥まで重たく沈んでいる。 「まだダメか」 背後で真人の声がした。振り向くと、彼はデスク脇に置いた資料を抱え直しながら、窓の外ではなく美奈の手元を見ていた。 「……はい。夫に一言だけ入れたいんですけど」 「入れたい、じゃない。入れる」 「そんな簡単じゃないですよ」 言い返した瞬間、自分の声が少し震えているのに気づいた。真人は咎めるでもなく、少しだけ黙った。 「心配させるなと考えすぎるから、文章が止まる」 「……」 「相沢。事実だけでいい。今は状況説明だ。長く書くな」 その言い方はいつも通り厳しいのに、今夜は妙に腹が立たなかった。美奈は画面を見下ろし、息を吸った。 『今、ホテルで少し手間取っています。落ち着いたら連絡します』 打ち込んでみると、思ったより短い。けれど、それだけで喉の奥のつかえが少し下がった。 「こんなのでいいんでしょうか」 「十分だ」 真人が即答したので、美奈は思わず顔を上げた。 「え、もっとちゃんと謝った方が」 「今は謝罪文ではない。生存報告だ」 「生存報告って」 言葉の荒さに、こみ上げた笑いが少しだけ漏れる。真人は一瞬だけ眉をひそめたが、続ける声は不器用なほど真面目だった。 「向こうが心配しているなら、余計な不安を増やすな。必要な情報だけ渡せばいい」 美奈は小さくうなずいて、今度こそ送信を押した。画面が一度だけ揺れ、すぐに完了の表示が出る。たったそれだけなのに、肩から力が抜けた。 「……送れました」 「なら次だ」 真人はデスクへ向かい、手元の紙束を机の端でそろえた。彼の動きは相変わらず無駄がない。けれど、その横顔にはさっきまでの刺々しさより、妙に急いでいるような焦りが見えた。 「次、ですか」 「謝罪の文言だ。明日の朝までにぶれない形にする」 「朝までに、ですか」 「今ぶれると全部崩れる」 美奈は窓際から離れ、デスクのそばへ歩いた。並んで立つと、近すぎて気まずいはずなのに、今は不思議と嫌ではない。真人が紙に書きつけた箇条書きの横で、彼女もメモを取る。 「まず、何を伝えるか。事実、迷惑、謝意」 「順番を守る。言い訳はしない」 「声を落とさない」 「必要以上に頭を下げない」 「……それ、難しいです」 「難しくてもやる」 その即答に、美奈は苦笑した。怖い人だと思っていたのに、こうして隣で同じ紙を見ていると、ただ厳しいだけではないとわかる。失敗を避けたい気持ちが、彼の方にもあるのだろう。 「神崎さん」 「何だ」 「今日は、ちゃんと一緒にやってくれるんですね」 真人の手が一瞬止まった。 「最初からそうしている」 「……そうですか」 「そうだ」 短い返事だった。けれど、その一言で、美奈の胸の奥にあった重さが少しだけ形を変える。敵対していたはずの相手ではなく、同じ失敗を前にして、同じ紙を見つめる人間の声に聞こえた。 真人はペン先で最後の一行を囲んだ。 「これでいく。明日、先方にぶつける前にもう一度読むぞ」 「はい」 返事をした美奈は、今度はさっきより小さく頷かなかった。二人分の影がデスクの上で重なり、窓の外の灯りが静かに揺れている。まだ夜は長い。けれど、少なくとも今は、ひとりで沈む夜ではなかった。
謝罪出張、ふたり部屋
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