教室の空気が、朝からずっと妙だった。 二年A組の扉を開けた瞬間、ひなは思わず足を止めそうになった。数人の生徒がいっせいに顔を上げ、次の瞬間には待ちきれないように声をかけてくる。 「橘先生、おはようございます」 「この前の話、覚えてます?」 「先生、昼休み空いてますか」 重なる声に、ひなは一瞬だけ思考が白くなった。ひとりが話しかければ、すぐ別の生徒が間を埋める。距離が近い。近すぎる。 「え、ええ、おはよう。みんな、落ち着いて」 笑ってみせたものの、胸の奥がざわついた。昨日までの疲れた視線とは違う。まるで、彼女の言葉の一つひとつを取りこぼすまいとするみたいに、目が離れない。 授業が終わっても、異変は変わらなかった。教科書を閉じたあとも、誰かが机の横に立ち、また誰かが廊下で待っている。ひなは職員室に戻るふりをして、わざと教室の後ろに視線を流した。 そこで気づく。声をかける子ほど、笑顔が少し無理をしていた。返事は早いのに、指先がそわそわと落ち着かない。視線の先には、たぶん誰かに置いていかれる不安がある。 「橘先生、今日って……」 「うん?」 「いや、やっぱりいいです」 言いかけて引っ込める。その繰り返しが、ひなにはやけに痛々しく見えた。 放課後になっても、数人の生徒は帰ろうとしなかった。机を片づけるふりをして、ひなの動きを目で追っている。ひなは書類を抱えたまま、ふうと息を吐いた。 「ねえ、そんなに急がなくても、私はどこへも行かないよ」 自分で言ってから、少しだけ驚く。慰めのつもりだったのに、言葉が妙に自分にも返ってきたからだ。 生徒たちは一瞬だけ目を見開き、それから顔を伏せた。誰も泣きはしない。ただ、喉の奥に飲み込んだものが多すぎる顔だった。 ひなはその表情を見比べながら、ようやく気づく。過剰な親しみは、甘えではない。たぶん、置いていかれるのが怖いのだ。誰かに先に見捨てられる前に、掴めるものを掴んでしまいたい、そんな焦り。 「……寂しかったのかな」 誰に聞かせるでもなく漏れた呟きに、ひながいちばん胸を締めつけられた。 教室の窓の外では、四月の風が校庭の砂を少しだけ巻き上げている。ひなは戻ってきた生徒たちへ向き直り、今度は逃げずに、その揺れる目を順に見た。 「大丈夫。ちゃんと、ひとりずつ見るから」 その約束が正しかったのかどうか、彼女にはまだ分からない。けれど、生徒たちはようやく少しだけ肩の力を抜いた。ひなはその変化を見逃さないように、静かに椅子へ腰を下ろした。
封印の祠
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