食事処へ通されると、そこには二人分の卓だけがぽつんと置かれていた。灯りはやわらかく、並んだ器の影まで静かに見える。山菜の和え物、川魚の焼き物、小鍋から立ちのぼる湯気。どれも派手ではないのに、腹の奥をそっと撫でるようにうまそうだった。 「……すごいですね」 香織が卓を見て言う。 「ほんとだな。ここまで整ってると、かえって緊張する」 「高瀬さん、そういうこと言うんですね」 「意外ですか」 「少し」 女将が地酒を置いて去ると、また沈黙が戻った。慶は湯のみを手に取り、香織も箸をそっと持ち上げる。最初のひと口は、互いに様子を見るみたいに慎重だった。だが、鍋の湯気が頬を温め、酒の熱が喉をほどくころには、言葉が少しずつ落ちてくる。 「今日の仕事、最悪でさ」 慶は自分でも驚くほど素直に言っていた。 「言われた通りに直したのに、最後は全部こっちのせいみたいになって」 「それ、つらいですね」 「つらいというか、空しい。頑張るほど削られる感じ」 香織は箸を置き、静かにうなずいた。 「学校でも、あります。何もしてないのに、そこにいるだけで疲れる場所」 「人が多いから?」 「それもあるけど……期待される形に、ずっと合わせていないといけないので」 その言い方は落ち着いていた。けれど、慶には分かった。言葉の端々に、無理をして平気な顔をしている気配がある。年齢より大人びて見えるのは、きっと強いからじゃない。強く見せる癖が、もう板についているだけだ。 「朝比奈さんって、ちゃんと話すと静かですよね」 「どういう意味ですか」 「慌てないというか。こっちが弱ってると、余計に落ち着いて見える」 香織は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく笑った。 「慣れてるだけかもしれません」 「何にです」 「うまく振る舞うことに、です」 その答えは軽く言ったふうでいて、どこか深かった。慶は箸を止め、焼き魚の香りの向こうにある彼女の横顔を見た。聞き出したいわけじゃない。ただ、平気な顔の下に隠した重さが、確かにそこにある。 「無理、してますか」 そう口にした瞬間、しまったと思った。だが香織は逃げなかった。 「少しだけ」 「少し、ですか」 「ええ。少しだけじゃないと、壊れそうなので」 その一言で、卓の空気が少し変わった。慰めるにも重すぎて、黙るには近すぎる。慶は熱い鍋を一口すすり、湯気の向こうで香織も同じように息をつくのを見た。 「今日は、ここに来てよかったですね」 慶が言うと、香織はしばらく黙ってから、箸先で器の縁をなぞった。 「……ええ。たぶん、来なかったら駄目でした」 そう言った顔は、年齢以上に落ち着いていて、それなのに少しだけ頼りなかった。慶はその矛盾に、理由のない胸の痛みを覚える。静かな食事処で、二人の距離だけが、料理が冷めるより遅く、けれど確かに近づいていた。
山奥で見た素顔
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