食事処を出ると、廊下の空気はひんやりしていた。地酒の熱がまだ喉の奥に残っていて、慶は少しだけ足取りが軽い自分に気づく。香織も同じだったのか、いつもより肩の力が抜けて見えた。 「ちょっと、飲みすぎましたね」 香織が小声で言う。 「俺もだ。なのに、妙に頭は冴えてる」 「それ、酔ってる人の言い方です」 「否定できないな」 短く笑い合ったあと、二人は談話スペースの前を通り過ぎた。誰もいない静かな空間の明かりが、薄く廊下にこぼれている。その先へ視線を向けると、香織がふっと立ち止まる。 「少し歩きませんか。酔い覚ましに」 「いいですね」 慶はうなずき、彼女と並んで進んだ。向かう先は、貸切状態の大浴場へ続く廊下だった。人気のない夜の宿は、足音までやけに大きく感じる。それなのに、不思議と怖くはない。むしろ、余計なものが削ぎ落とされて、相手の声だけがまっすぐ届いてくる。 「高瀬さんは、どうしてここに来たんですか」 不意の問いに、慶は一瞬だけ言葉を探した。 「ただ、何も考えたくなかったんです。疲れが溜まりすぎて、仕事のことを思い出すのも嫌で」 「逃げたかった?」 「まあ、そうかもしれない」 香織は少し前を向いたまま、静かに首を振った。 「私は、逃げたかっただけじゃないんです」 その声は、さっきまでの柔らかさより少しだけ強かった。慶は横顔を見たくなって、でも見つめすぎるのはためらわれて、結局、歩幅だけを合わせる。 「どういう意味ですか」 香織は廊下の先を見据えたまま、ひとつ息を吸った。 「自分を取り戻したかった。最近、どこにいても、誰かが求める形に寄せてばかりで……気づいたら、自分の輪郭が薄くなっていたんです」 言い終えたあと、香織は少しだけ苦しそうに笑った。 「こんなこと、初対面の人に言う話じゃないですね」 「いや」 慶は即座に否定した。 「言ってくれて、よかったです」 香織がこちらを見る。灯りを受けた瞳は、さっきまでよりもずっと近く感じた。 「高瀬さん、変です。そんなふうに真剣に聞かれると、困ります」 「困らせましたか」 「少しだけ」 そう言いながらも、彼女は逃げなかった。慶はそこで初めて、自分の中に生まれた気持ちの輪郭をはっきりと知る。守りたい。そう思った。夜の間だけでも、彼女が無理に笑わなくて済むように。できることなら、この短い出会いが終わってしまうのも惜しい、と。 「自分を取り戻したい、か」 慶は小さく繰り返す。 「それ、すごく大事なことだと思います」 香織は少しだけ目を伏せた。 「……ありがとうございます」 二人の前には、貸切の大浴場へ通じる扉が静かに待っていた。慶はその前で足を止め、隣にいる香織の気配をあらためて感じる。酔いのせいだけではない熱が、胸の奥で確かに形を持ち始めていた。
山奥で見た素顔
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