扉の前で立ち止まったまま、二人はしばらく黙っていた。廊下の灯りは控えめで、磨かれた板の上に細い影を落としている。慶は息を整えようとして、結局うまくいかなかった。隣にいる香織の気配が、さっきまでよりずっと近い。 「……少し、休みますか」 慶が言うと、香織は小さくうなずいた。 「はい。ちょっとだけ」 二人で踵を返し、浴場へ向かうはずだった廊下をそのまま引き返す。縁側に出ると、夜の湿り気が肌を撫でた。外では雨が降り始めていて、屋根を叩く音が静かな宿の輪郭をさらに深くしている。遠くの山の気配まで、雨に溶けてしまいそうだった。 「降ってきましたね」 「ええ。音、きれいです」 香織はそう言って、縁側の端に腰を下ろした。慶も少し離れて座る。そこへ宿の女将が、何も言わずに温かい湯の入った湯飲みをふたつ置いていった。香織は軽く頭を下げ、湯飲みを両手で包む。所作がやけに整っていて、慶は思わず見入った。 ひと口。彼女は熱を確かめるみたいに、ゆっくり飲む。指先の動きまで無駄がない。学生らしい幼さよりも、どこか育ちのよさを思わせる落ち着きが勝っていた。 「香織さんって、いつもそんなに落ち着いてるんですか」 「そんなことないですよ」 「いや、だいぶ慣れてる感じがします」 「慣れてる、ですか」 香織は湯飲みを見つめたまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。 「無理に慌てないようにしてるだけです。崩れると、戻すのが大変なので」 「……戻す、か」 慶はその言葉に引っかかった。簡単に言ったふうでいて、そこには何度も立て直してきた人間の手触りがある。女子学生という肩書きだけでは収まらない、静かな重さ。そう気づいた瞬間、知ってはいけないものに触れた気がして、同時に目を逸らしたくもなった。 「高瀬さんは」 香織が言う。 「私のこと、まだよく知らないんですよね」 「そうですね」 「でも、知りすぎなくていい気もします」 慶は返事に詰まった。知りたい。けれど、知らないままでもいい。そんな矛盾が、雨音みたいに胸の中で重なっていく。 「変な言い方ですけど」 香織が続けた。 「知らないから、今こうしていられるのかもしれません」 「それ、わかる気がします」 互いの距離は、縁側の幅ほどしかない。それなのに、少し近づくだけで空気の温度が変わる。慶は香織の横顔を見て、彼女を包む静けさが本物なのか、それとも精巧に整えられたものなのか、判断できなくなった。けれど、どちらでもよかった。知らないことへの不安と、知りすぎたくない安心が、同じ大きさで胸の中に膨らんでいる。 雨は強くなったり弱くなったりを繰り返し、廊下の奥はますます静かになる。香織はもう一度、湯を飲んだ。慶はその横で、何も言えないまま、ただその所作を見ていた。
山奥で見た素顔
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