エラベノベル堂

山奥で見た素顔

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7章 / 全10

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湯気が肌に触れるたび、輪郭がゆるむ気がした。大浴場は貸切のはずなのに、広い湯船の向こう側には、誰かの気配みたいな静けさが沈んでいる。慶は肩まで湯に浸かり、深く息を吐いた。昼間の仕事の重さも、さっきまでの気まずさも、熱にほどかれていく。 「……気持ちいいですね」 湯船の端で香織が髪をまとめ直しながら言う。その声は、廊下にいたときよりずっと柔らかかった。慶は頷いた。 「ええ。ここまで来て、やっと体が止まった感じがします」 香織は少し笑った。湯の揺れがその笑いを小さく揺らす。 「高瀬さん、ずっと頑張ってましたもんね」 「そう見えますか」 「見えます。というか、隠すのが上手じゃないです」 慶は苦く笑って、天井を見上げた。白く曇った高い天井。湯気がそこへ消えていく様を見ていると、心の中に溜めていたものも、同じように薄くなっていく気がした。 「俺、仕事でいつも、自分の顔がよくわからなくなるんです」 言葉にした瞬間、胸の奥が少し痛んだ。だが止まらなかった。 「直せと言われたものを直しても、最後にはまた違う指示が来る。誰かの都合に合わせているうちに、何が自分の判断だったのか分からなくなる。気づけば、ただ動いているだけで、何も考えていないみたいになっていて」 香織は湯の表面を見つめたまま、黙って聞いていた。遮られない沈黙が、妙に心地いい。 「今日、ここに来て、やっと息ができた気がします」 慶がそう言うと、香織はゆっくり顔を上げた。 「それなら、よかったです」 たったそれだけなのに、胸の奥がきゅっとなる。香織の言葉は優しいのに、軽くない。今夜の彼女は、昼間よりずっと素直で、ずっと遠い。 「私も」 香織が静かに言った。 「学校でも家でもない場所で、こんなふうに肩の力を抜いたの、初めてかもしれません」 慶は目を瞬かせた。 「初めて?」 「ええ。どこにいても、ちゃんとしていないといけなかったので」 そこで香織は少しだけ言葉を切り、湯面に映る灯りを見つめた。 「でも、ここでは違いました。誰にも見られていないみたいで、見られていないから、やっと自分でいられる気がして」 慶はその横顔を見た。湯気の向こうで、昼間のきっちりした表情がほどけている。大人びて見えたのは、余裕があったからじゃない。余裕のない日々の中で、崩れないようにしていただけなのだと、今さらはっきり分かる。 「朝比奈さん」 呼ぶと、香織は小さく返事をした。 「こういうの、ずるいですよね」 「何がですか」 「そんな顔で、そんなふうに言うの」 香織は一瞬きょとんとして、それから目を伏せた。耳まで赤くなった気がして、慶は慌てて視線を逸らす。 「すみません。変なことを」 「いえ」 今度は香織のほうが困ったように笑った。 「少し、嬉しかっただけです」 その一言で、慶の胸は静かに騒いだ。匿名のまま、互いの本当の名前の重みも知らないまま、それでも心だけが近づいていく。知りたいのに、知らないほうがいい気もする。そんな矛盾が、湯の熱みたいにじわじわ広がる。 香織が湯船にそっと指先を沈めた。 「高瀬さん」 「はい」 「ここで会えて、よかったです」 慶は返す言葉を探して、結局、ただ頷いた。言葉にしたら壊れそうな何かが、今まさに形を持ち始めている。湯気に包まれた沈黙の中で、二人はお互いの存在を、前よりずっと強く意識していた。

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