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山奥で見た素顔

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8章 / 全10

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大浴場を出たあと、慶は濡れた足音が廊下に吸い込まれていくのを聞きながら、香織の少し前を歩いた。湯上がりの熱がまだ頬に残っていて、頭の芯までぼんやりしている。それでも、隣に続く静かな気配だけは妙に鮮明だった。 「高瀬さん、あの」 香織が立ち止まり、慶も振り返る。廊下の灯りの下で見る彼女は、さっきまでよりいくらか柔らかかった。だが、その柔らかさの奥に、ふっと閉じる扉みたいな慎重さがある。 「今日は、ありがとうございました」 「こちらこそ。ずいぶん救われました」 「救われた、ですか」 「ええ。変ですか」 「少しだけ」 そう言って、香織は目を伏せた。笑ったようにも見えたが、すぐに表情を整える。その仕草が、なぜだか慶の胸に引っかかった。さっきまでの距離の近さが、ほんの少しだけ遠のく。 「朝比奈さん」 「はい」 「名前、いいですか」 問いかけは、深追いしない程度の軽さに留めたつもりだった。香織は一拍だけ黙り、それから、まるで言い方を選び直すみたいに小さく息を吸った。 「……香織、で」 慶は瞬きをした。 「香織さん、じゃなくて」 「ええ。そっちのほうが、今はいいです」 今は。その言葉の端に、慶は見えない境目を感じた。完全に隠すわけではない。けれど、全部は渡さない。その距離感が、夜の静けさに溶けるように落ち着いていた。 「分かりました。じゃあ、香織さん……いや、香織、で」 慶が言い直すと、彼女はほんのわずかに肩を揺らした。 「はい」 その返事は、さっきまでの名乗りよりずっと慎重だった。慶はそれ以上を聞かなかった。聞けたはずなのに、聞かないままでいるほうが、なぜか正しい気がした。 「高瀬さんも」 香織が言う。 「高瀬さんのままで、いいですか」 「もちろん」 「じゃあ、それで」 短いやり取りのあと、二人の間にまた沈黙が戻る。けれど今度は、気まずさではなかった。廊下の奥で風が細く鳴り、壁の向こうから湯の流れる音がかすかに届く。その音に紛れるように、香織は軽く頭を下げた。 「おやすみなさい」 「おやすみ」 香織は自分の部屋の前で足を止めた。戸に手をかける指先が、少しだけ迷う。それから静かに扉が開き、彼女の輪郭が細く室内の暗がりへ溶けていく。 「香織」 慶が思わず呼ぶと、彼女は振り返った。 「はい」 その一瞬だけ、顔の奥にある何かが見えた気がした。だが、すぐに彼女は穏やかな表情に戻る。 「また明日」 扉が閉まる。ぱたん、という控えめな音が、やけに長く廊下に残った。慶はその前から動けず、しばらく閉ざされた戸を見つめていた。もう声はしない。けれど、彼女がそこにいた気配だけが、薄く、確かに残っている。 名乗り方を少し変えたこと。すべてを明かさない慎重さ。深追いしないで済ませた自分。 その全部が、なぜか救いだった。 問いたださなかったからこそ、今夜は壊れずに済んだのかもしれない。慶はそう思いながら、ひとり廊下の灯りを見上げた。閉じた扉の向こうで彼女が何を守っているのか、まだ知らない。それでも、知らないままでいる優しさが、この夜には確かにあった。

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