階段を上りきり、渡り廊下を歩く。古い木造建築特有の軋みが、どこか心地よく響いた。自室の前に立ち、鍵を開ける。六畳ほどの和室に、低いテーブルと布団が一組。窓の外には漆黒の山影が広がり、虫の音だけが静かに流れていた。 「まずは……風呂だな」 汗と疲れを洗い流すには、ちょうどいい。将人は浴衣とタオルを手に取り、部屋を出た。 一階の大浴場は想像以上に広かった。石造りの浴槽からは湯気が立ち上り、黄褐色のお湯が静かに揺れている。 「いい湯だ……」 肩まで浸かると、凝り固まった筋肉がほどけていくのが分かった。天井を見上げる。仕事のこと、上司の顔、終わらないプロジェクト。そんな日常が、湯の熱と共に遠ざかっていく気がした。 「これだから温泉はやめられない」 独り言が響く。誰もいない浴室は、自分だけの聖域のようだった。 十分ほど浸かった後、将人は上がり、浴衣に着替えて部屋へ戻った。時計を見ると、もうすぐ六時半。夕食が来る時間だ。 「腹も減ってきたな」 ふと、廊下から足音が聞こえた。障子越しに影が映る。 「失礼します、お夕食をお持ちしました」 女将の声だ。将人が立ち上がって障子を開けると、料理を載せたお盆を持った女将がにこりと微笑んだ。 「お部屋は隣同士ですね。お隣の部屋にも、今からお持ちしますから」 「あ、ありがとうございます」 女将が去った後、将人はふと廊下を見た。隣の部屋の前で、華蓮が立っている。 「あ……」 彼女も浴衣姿だった。濡れた髪をタオルで拭きながら、少し驚いたように将人を見る。 「お風呂、上がられたんですね」 「ええ。いいお湯でした」 華蓮は小さく頷いたが、その表情にはどこか影が差していた。伏せた瞳、微かに震える肩。 「どうかしましたか?」 思わず尋ねていた。彼女は一瞬言葉に詰まり、それから寂しげに微笑んだ。 「いえ……なんでもないんです。ただ、一人で食事をするのは久しぶりだなって」 その言葉が、将人の胸のどこかを突いた。彼女もまた、何かを抱えている。そんな直感があった。
山奥で見た素顔
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