若菜の家の前にある小さな花壇は、夜の灯りに縁取られて、昼間よりも静かに見えた。隼斗は門の脇に立ち、さっきまでのカフェの空気を引きずったまま、土の匂いを吸い込む。若菜は隣で、指先でスカートの端をいじりながら、ちらちらとこちらを見ていた。 「で、どこから広がったんだろうな、その噂」 隼斗が言うと、若菜は小さくうなずいた。 「……分かんない。けど、誰かが言ってたのを聞いた、って子はいた」 「誰か、か」 「うん。進路の話とか、家のこととか、そういうのが混ざってた、って」 隼斗は首をかしげる。進路。家族。どれも近いようで、少しずつ意味がずれていく言葉だ。 「俺が進路のことで悩んでるってのは、まああるけど」 「あるの?」 若菜が身を乗り出す。隼斗は苦笑した。 「進学か就職か、先生に聞かれたくらいだよ。引っ越しとは全然違う」 「でも、そういうのって、途中で話が変わるじゃない」 「変わらないよ」 「ほんとに?」 不安そうな目が、夜気の中でやけに真剣だった。隼斗は少し考えてから、うんと短く返す。 「ほんとに」 それでも若菜の表情はすぐにはほどけなかった。花壇の縁に置かれた小さな鉢植えを見つめ、彼女は細い声で言う。 「私、変だったよね」 「まあ、かなり」 「……やっぱり」 「でも、理由が分かった」 若菜は顔を上げる。 隼斗は、からかうみたいに肩をすくめた。 「気を引けるなら何でもいいと思ってたんだろ」 その言葉に、若菜の頬がさっと赤くなる。けれど逃げようとはせず、しばらく黙ってから、観念したように視線を落とした。 「……うん」 「え」 「気を引けるなら、何でもいいと思ってた」 絞り出すみたいな声だった。夜の静けさが、その一言だけを妙にはっきり拾う。隼斗は思わず息を止めた。 「だって、最近ずっと変だったし。服を変えたら、見てくれるかなって。ちゃんと見てくれたら、なんとかなるかなって」 「なんとかって、何が」 「分かんない。でも、放っておかれるのが嫌だった」 言い終えると、若菜は花壇の花を見つめたまま、もう何も言わなかった。大人びた服装も、妙に気合いを入れた態度も、全部その不安の裏返しだったのだと、隼斗はようやく飲み込む。 「……そっか」 それだけ言うと、若菜は小さく肩を震わせた。 「怒った?」 「怒ってない」 「ほんと?」 「ほんと。むしろ、面倒くさいくらい心配してたんだなって思った」 「面倒くさいは余計」 拗ねた声が出る。けれど、もう張り詰めた感じはない。隼斗は少し笑って、花壇の端に触れた。 「でも、次は変な噂じゃなくて、俺にそのまま聞けよ」 若菜はしばらく黙っていたが、やがて、消え入りそうな声で答えた。 「……うん」 その返事は小さいのに、さっきまでよりずっと素直だった。隼斗はそれを聞いて、胸の奥に残っていたざらつきが少しだけ和らぐのを感じる。なのに次の瞬間、若菜がふいに花壇の向こうを見て、ぽつりと呟いた。 「でも、聞けなかったのも、隼斗が悪いからね」 「は?」 「だって、いきなり平気そうな顔するんだもん」 呆れたような言い方なのに、口元はかすかに緩んでいる。隼斗は苦笑しながら、夜風の中で小さく息を吐いた。まだ全部はほどけていない。けれど、二人の間にあった見えない結び目が、今夜ひとつ緩んだのだけは確かだった。
ワンピースの向こう側
全年齢小説ID: cmpfis80e02he01mtpcyb2cgq
