エラベノベル堂

ワンピースの向こう側

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9章 / 全10

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夕焼けが遊具の影を長く伸ばして、公園のベンチを橙色に染めていた。買い物袋は足元に置かれたまま、隼斗は隣で小さく息を吐く若菜を見た。さっきまでの川沿いとは違って、ここでは人通りもまばらで、二人の沈黙がやけに耳に残る。 「……引っ越しするなら、もっと早く言ってほしかった」 ぽつりと落ちた声は、夕風に混じって消えそうだった。隼斗は一瞬だけ目を瞬かせ、それから静かに首を振る。 「だから、しないって言ってるだろ」 「でも、みんなが……」 「みんなが勝手に言ってただけだ。俺はどこにも行かない」 若菜は唇を結んだまま、しばらく隼斗の顔を見つめた。夕日の色がその瞳に溶けて、さっきまで張りつめていた表情を少しずつやわらげていく。 「……ほんとに?」 「ほんとに」 「ほんとにほんと?」 「しつこいな」 隼斗が苦笑すると、若菜はようやく肩の力を抜いた。 「だって、信じたくなかったんだもん」 「そんなにか」 「そんなに」 即答したあと、若菜は少しだけ顔を伏せる。風に揺れる髪を押さえる指先まで、もう無理に背伸びしている感じはなかった。 「それに……」 「それに?」 言いかけて、若菜は一度だけ唇を噛む。それから、観念したみたいに小さく笑った。 「服のことも、全部バレてたなら、もう隠せないし」 「何を」 「その……自分を見てほしかっただけ」 隼斗は返事を忘れて、隣の横顔を見た。若菜は真っ赤になりながらも、逃げずに前を向いている。 「変な服着て、気合い入れて、驚かせれば、少しはこっちを向くかなって思ったの。なのに、全然うまくいかなくて」 「……いや」 「なに」 「十分、見てたけど」 その一言に、若菜の目がぱっと揺れる。次の瞬間、彼女は誤魔化すみたいに笑った。 「そういうの、今言う?」 「今だから言うんだろ」 「ずるい」 でも、その声はもう拗ねていない。ベンチの背もたれに小さく寄りかかった若菜は、夕焼けを見上げて、ふっと息を漏らした。 「……でも、もういいや」 「何が」 「引っ越しのことも、服のことも」 そう言ってから、若菜は隼斗のほうを見て、少しだけ照れた笑みを浮かべる。 「結局、見てほしかっただけだったし」 隼斗はその顔を見て、胸の奥が妙に静かになるのを感じた。さっきまで追いかけていた噂は、夕暮れの中でようやく形を失っていく。 「じゃあ、次は変に回りくどくするなよ」 「うん」 「ちゃんと言え」 「……努力する」 「努力かよ」 若菜は肩をすくめ、それから小さく笑った。公園の向こうで、ひとつだけ街灯が早くも灯り始める。隼斗はその光を見ながら、隣にいる彼女がもう噂に振り回されていないことを確かめるように、静かに頷いた。

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