「……こっち、手、洗うんだよね」 花は手水舎の前で立ち止まり、提灯の灯りが水面に落ちるのを見下ろした。さっきまでの熱っぽさが少し引いて、代わりに妙な落ち着かなさが戻ってくる。章太は隣に並び、うなずいた。 「そうだな。花、大丈夫か」 「大丈夫、って言いたいけど、今日は全然大丈夫じゃない」 「知ってる」 短いやり取りなのに、花はそれだけでまた赤くなる。指先をもじもじさせながら、柄杓を取ろうとして、ふと動きを止めた。 その瞬間、ひやりとした風が水面を撫でた。 「……あれ」 花の声がかすれる。章太が顔を上げると、花の背後に立つ暗がりが、やけに濃く見えた。だが次の瞬間、花は何事もなかったように柄杓を持ち直す。けれど、そこに重なるように、聞き覚えのある、少し古風で意地の悪い気配がふわりと差し込んだ。 「この子、ほんとに手がかかるね」 花が小さく息を呑む。 「ちょ、ちょっと待って、今の……」 章太には見えた。花の肩越しに、薄い影みたいなものが寄り添っているのが。花本人には見えていないらしいその輪郭が、まるで二人の間に橋をかけるみたいに、章太のほうへだけ気安く手を振っている。 「花を助けるふりして、何してるんだよ」 「助けてるじゃない。ほら、ちゃんと教えてあげなよ。こういう時は、相手の目を見るんだって」 花はきょとんとして章太を見上げ、それから自分の頬が熱いのに気づいて慌てる。 「な、なんで急にこっち見るの」 「見ろって言われたからだろ」 「言ってない!」 「言ってるよ。心の中でね」 花は言葉に詰まり、柄杓を握ったまま固まった。章太は吹き出しそうになるのをこらえ、代わりに水を汲む。 「ほら、こうする」 清い水が竹を伝って落ち、音を立てる。花も真似をしようとするが、どこかぎこちない。そのたび、章太にだけ見える影がわざとらしく肩をすくめた。 「この子、昔からそう。強がるくせに、肝心なところで逃げる」 「やめろよ」 「やめない。だって、あなたに知ってほしいんだもの」 花は章太と影のやり取りが見えていないぶん、余計に混乱していた。 「章太、誰と話してるの」 「……いや」 言いかけて、章太は口を閉じた。花に見えない相手の存在を説明するのは、きっと今は違う。だが、黙ったままでも伝わるものがある気がした。 「花、お前さ」 「うん」 「無理に平気なふり、しなくていい」 花の指がぴくりと止まる。 「だって、私、さっきから変だし。全部、あの……」 言葉が続かない。花は悔しそうに唇を噛んだが、もう隠し切れていなかった。 影がそこで、ほんの少しだけ静かになる。 「ほらね。見抜かれてる」 「……なんで、そんなことまで」 花の声は小さい。誰に向けたものか分からない問いに、影は優しくも残酷に笑う。 「弱いところを隠す癖も、素直になるのが怖いところも、全部わかるよ。だって、好きな人の前で息が止まる顔、ずっとしてるんだもの」 花の顔から、さっと血の気が引いた。次に来たのは、逃げ出したいほどの熱だ。 「ちょ、ちょっと待って、それは……」 「違わないでしょ」 章太は花を見た。花は見返せない。けれど、耳まで赤いまま震えている。今までなら、茶化して誤魔化していたはずのその沈黙が、今日は妙に重い。 「花」 呼ばれて、花はようやく顔を上げる。 章太は真っすぐに言った。 「俺も、逃げない」 花の瞳が揺れる。 「だから、ちゃんと言うなら今じゃなくてもいいけど、言わないまま終わるのは嫌だ」 その言葉に、影が満足そうに薄く笑った気配がした。 花は何も返せない。けれど、柄杓を持つ手だけはもう震えていなかった。自分が見抜かれていたこと、弱さまで全部見透かされていたことに、戸惑いは残る。それでも、その戸惑いの底で、何かが静かに固まっていく。 「……ずるい」 やっと絞り出した声は、か細いのに、少しだけ決意を含んでいた。 「章太も、神様も、ずるいよ」 章太が驚いていると、花はゆっくり息を吸う。水の音がやけに澄んで聞こえた。 「でも、もう逃げない。振り回されるだけなのは、悔しいし」 その一言で、章太の表情がわずかにほどける。 「……そうか」 「うん」 花は小さくうなずき、今度は自分から水をすくった。冷たい水が夜気を切る。たとえ相手が見えなくても、もうただ流されるだけではいられない。そう思えた。 背後で、影が楽しげに肩を揺らす。 「いい顔になったね」 花は息を呑み、章太を見たまま、次の一歩を選ぶように静かに立ち尽くした。
神様の告白
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