「じゃあ、柔道で私に勝てたら、何でも言うこと聞いてあげる」 美桜は廊下の壁に肩を預けたまま、わざと軽い調子で言った。体育館の脇に伸びる狭い通路には、部活帰りの足音と、遠くの掛け声がまだ残っている。勝ち気な笑みを浮かべれば、相手はたいてい戸惑う。そう思っていた。 けれど颯人は、少し目を細めただけだった。 「何でも、ですか」 「そう。怖くなった?」 「いえ。条件としては、わかりやすいですね」 さらっと受け流されて、美桜は一瞬だけ眉を動かす。つまらない。けれど、引っ込めるのはもっとつまらない。 「私が勝ったら、さっきの言い方、ちゃんと謝って。強いって認めること」 「いいですよ」 あまりにあっさりした返事に、今度は美桜のほうが拍子抜けした。 「……ほんとに?」 「ただし、一つだけ」 「なに」 「僕のことは、勝手に格下扱いしないでください」 その静かな声に、周りで様子を見ていた部員たちが、くすっと笑った。冗談半分の空気が流れ、誰かが 「やるのかよ」 と小さく囁く。美桜は頬をふくらませる。 「なによ、そんなの当然でしょ。見た感じ、あなた、私より強そうには見えないし」 「見た目で決めるんですね」 「当たり前。柔道って、そういうの大事でしょ」 「そうですね。だから、勝ってみせます」 その言い方が妙に落ち着いていて、美桜は少しだけむっとした。落ち着いているのはいい。でも、それが余裕だと思われるのは気に入らない。 「へえ。昔は柔道でもやってたみたいな口ぶり」 「昔の話です」 「ふうん。元選手ってやつ?」 「さあ」 曖昧にぼかされた返答に、美桜は細く笑う。ますます気に入らない。けれど、ここで引けば自分が負けたみたいで腹が立つ。 「いいわ。じゃあ、放課後にちゃんと相手してあげる。逃げないでよ」 「逃げません」 颯人は短く答えた。淡々としているのに、言葉だけは妙に揺らがない。 美桜はその顔を見上げたまま、まだ自分が優位だと信じていた。相手は転入生で、柔道の実績も知らない。少し変わっただけの男の子。そう片づけようとするのに、胸の奥がじわりと熱い。 周囲の視線が集まる中、美桜は腕を組み、わざと得意げに鼻を鳴らした。 「じゃ、決まり。私に勝てたら、何でも言うこと聞く。負けたら、ちゃんと認める。簡単でしょ」 「ええ」 「それだけ自信あるんだ」 「自信というより」 颯人はそこで一拍置き、静かに続けた。 「確認してみたいだけです」 その一言が、なぜか妙に引っかかった。美桜は笑ってごまかしたが、心のどこかで、ほんの少しだけ背筋がざらつく。 それでも、引き下がる気はない。 廊下の終わりで誰かが息をのむ気配がして、美桜は細い指先を握りしめた。今はまだ、勝負の前。けれど、この転入生がただ静かなだけの相手ではないことを、彼女はまだ知らない。
約束の一本
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