「ここからが本番、ね」 颯人はそう繰り返すと、ほんの少しだけ目を細めた。挑発しているというより、確かめているみたいな顔だった。 美桜はその態度が気に入らない。気に入らないのに、さっきまでのように真正面から突っ込むと、また足元をすくわれる。そうわかってしまったのが、さらに腹立たしかった。 「だったら、見てなさいよ」 踏み込む。今度は力任せじゃない。相手の肩の向き、足の置き方、わずかな呼吸の揺れまで見て、崩されない位置を探す。だが、見つけたと思った瞬間には、颯人の手がもう少し先を取っていた。 「っ、また……!」 「焦ると、重心が上がります」 「うるさい、説明しなくていい!」 美桜は強く引こうとした。けれど、引くほどに自分の姿勢が乱れる。颯人は無理に押さえ込まず、ほんの少し角度を変えるだけで、彼女の力を空へ逃がしてしまう。 そのたび、畳を踏む足が軽くなる。軽くなるのに、自由になった気はしない。むしろ、見えない糸で誘導されているみたいで、背筋にぞわりとした。 「今の、外す気だったでしょ」 「ええ。でも、少し遅れました」 「言い方がむかつく……!」 声を荒げても、相手の静けさは崩れない。美桜は息を整えようとして、そこでようやく自分が息を乱されていることに気づいた。余裕が削れている。しかも、相手はそれを見せつけるでもなく、淡々と積み上げてくる。 颯人は一歩、半歩と間を詰めるのではなく、逃げ道を消すように位置を変えた。 「待って」 思わず美桜が声を漏らす。観念したわけじゃない。まだ終わっていない。終わらせたくない。 彼女は膝を落とし、どうにか態勢を立て直そうとした。畳に残る自分の体温が、やけに熱い。負けるために立っているわけじゃない。そう言い聞かせながら、必死に手を伸ばす。 「まだ、崩れてない……」 「ええ。その粘りはいいですね」 「褒めてるつもり?」 「そのつもりです」 短いやり取りのたびに、胸の奥がざらつく。褒められているのに、追い詰められている。悔しいのに、逃げたくない。 美桜は歯を食いしばって、もう一度構え直した。今度こそ食らいついてやる。たとえ思うように動けなくても、ここで離されたら本当に終わる気がしたからだ。 記録係の息をのむ気配が、静かな柔道場に落ちる。 颯人はそんな彼女を見下ろすことなく、ただ真正面に立ったまま言った。 「大丈夫です。まだ、折れてはいません」 その言葉は優しいのに、なぜか余計に悔しかった。 美桜は口元を引き結び、もう一度、畳を蹴った。
約束の一本
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