エラベノベル堂

約束の一本

全年齢

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8章 / 全10

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「もう一列お願いします」 颯人の静かな声に、美桜はわざとらしくため息をついた。けれど、言われた通り手を動かす自分が少し可笑しかった。 「はいはい。言われなくてもやるし」 「助かります」 「そういうの、いちいち丁寧なの腹立つんだけど」 「褒め言葉として受け取っておきます」 「受け取るな」 文句を言いながら本をそろえる。図書室前の廊下に近い倉庫は、体育館の喧騒から切り離されたみたいに静かだった。棚に並ぶ備品の箱、雑に置かれたゼッケン、畳の手入れに使う道具。そういうものを見ていると、勝負のときの颯人とは少し違う顔が浮かぶ。 「ねえ」 「はい」 「なんでそんなに周り見てるの」 「周りですか」 「そう。試合のときもだけど、今も。私が本を落としかけたのも、さっき気づいてたでしょ」 颯人は一拍おいてから、乱れた札を整えた。 「気づきますよ。見ていれば」 「それ、普通みたいに言わないで」 「普通です」 その返しに、美桜はむっとした。だが、次の一言を待つ自分もいる。 颯人は棚の端に貼られた記録用紙を指で軽く押さえた。 「美桜さんは強いです。だから、強い人だけを見ていると、取りこぼすものがあります」 「取りこぼすもの?」 「たとえば、怪我人のフォローとか」 その言葉に、美桜の手が止まった。 「……え」 「大会のあと、少し動きづらそうにしていた部員がいました。立てるかどうか、気にしていたので」 「そんなの、私……」 大会で勝ったことばかり頭にあって、周囲の細かな顔まで見ていなかった。そう自覚した瞬間、頬が熱くなる。颯人は責めるような目をしない。ただ、事実として置いていく。 「あなたが勝ったのは、もちろん立派です。でも、勝ったあとに誰を見ていたかで、その人の大きさって変わります」 美桜は息を呑んだ。悔しい。なのに、言い返せない。自分が誇っていた大会の裏で、颯人は勝負の勝ち負けだけじゃなく、周囲の揺れまで拾っていたのだ。 「……なんで、そんなの一人で」 「一人ではありませんでした。見える範囲で、できることをしただけです」 「それでも、でしょ」 美桜は小さく言った。胸の奥がざわつく。自分は強いと信じていた。けれど、強いだけでは見えないものがある。その当たり前のことを、今さら突きつけられる。 颯人は本を一冊置いて、ようやく美桜を見た。 「美桜さんは、勝つことに真っ直ぐです。それはいいことです。ですが、勝ったあとに誰を見るかで、もっと強くなれます」 「……私に説教してる?」 「いいえ。気づいたことを言っているだけです」 悔しさで唇を尖らせるつもりだったのに、うまく形にならない。代わりに、胸の中に小さな引っかかりが残った。今までの自分なら、ここで無理に張り合っていたはずだ。けれど、今は違う。 美桜は整えた本の背表紙を指でなぞり、ぽつりと漏らした。 「……私、見てなかった」 颯人は何も言わず、ただ続きを待つ。 「勝ったから、終わりだって思ってた。あんたは、そうじゃなかったんだ」 「ええ」 「むかつく」 「はい」 「でも、ちょっとだけ……わかったかも」 その言葉が口をついて出た瞬間、自分でも驚いた。颯人は目を細める。 「それなら十分です」 「十分って何よ」 「気づくのは、早いほどいいですから」 美桜は返す言葉を失って、棚の上を見上げた。最初はただの約束だった。手伝うだけのはずだった。なのに、いつの間にか相手の視線の広さに追いつけなくなっている。 「……もう一個、やる」 そう言うと、颯人は少しだけ驚いた顔をした。 「自分からですか」 「悪い?」 「いえ。嬉しいです」 その一言に、美桜は視線をそらした。頬が熱い。けれど、今度はその熱を振り払えなかった。 倉庫の奥で、誰かの声がかすかに響いた。美桜は一瞬そちらを見てから、手元の箱へ視線を戻す。自分の知らないところで、見ている人がいる。そのことが、妙に気になった。

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