ほぼ無人の営業フロアで、雨音だけが窓を叩いていた。机の上にはさっきまでの残業の名残で、修正済みの資料が何冊も重なっている。俺がペンを置いて息をつくと、隣の美桜がくすりと笑った。 「先輩、今の顔。もう限界ですか」 「限界ってほどじゃない。……いや、少し近いかも」 「素直ですね」 言い返そうとして、喉の奥で言葉が転がる。美桜は書類の束を整えながら、わざとゆっくり立ち位置を変えた。俺の正面ではなく、少し斜め前。視線が自然と追いかけやすい角度だ。 「ここに置けば、見やすいですよ」 そう言って彼女は、資料を二列に並べ替える。たったそれだけなのに、どこか舞台の段取りを確認しているみたいに手慣れていた。俺は思わず眉をひそめる。 「お前、こういうの、やけに上手いよな」 「先輩が分かりやすいから、合わせやすいんです」 「またそれか」 「また、です」 軽口のやり取りなのに、胸の奥が妙に熱い。さっき自分で口にした、どこかで見たことがある展開、という感覚が、いよいよ冗談では済まなくなってきていた。美桜は俺の反応を確かめるように、少しだけ顔を傾ける。 「先輩、今どこを見てます?」 「え」 「資料じゃなくて、こっち」 不意打ちだった。慌てて視線を戻すと、彼女は楽しそうに目を細める。からかわれているのに、不思議と嫌ではない。むしろ、逃げたいのに逃げ切れない感じが、妙に心地いい。 「……お前、ほんとに人をいじるの上手いな」 「そうですか? でも、嫌ならやめますよ」 即答しない俺を見て、美桜は小さく肩をすくめた。そのまま椅子を少し引き、今度は俺の隣に腰を下ろす。近い。雨に濡れた夜の空気のせいか、それとも彼女の声のせいか、息苦しいほど距離が縮まった。 「続き、やりましょうか」 「……ああ」 画面に映る資料へ目を落とそうとするのに、集中が続かない。彼女の指先がカーソルを動かすたび、視界の端で髪が揺れるたび、意識が勝手に吸い寄せられる。理性では、ただの後輩だと分かっている。似ているだけだと、何度も言い聞かせてきた。 なのに、いま目の前にいる美桜は、俺のその言い訳をひとつずつ剥がしていく。 「先輩」 「ん……何だ」 「そんなに見つめられると、仕事になりません」 「見つめてない」 「見つめてました」 間髪入れず返されて、俺は言葉を失った。美桜は笑いながらも、どこか熱を含んだ目でこちらを見ている。冗談の形を借りているだけで、本当に笑って済ませていい空気じゃない気がした。 机の上の資料が、急に遠くなる。代わりに、彼女の気配だけがやけに鮮明だった。好奇心を追えば、戻れなくなるかもしれない。だが、もう半歩踏み込んでしまっている。 「……なあ、美桜」 名前を呼ぶと、彼女は少しだけ目を見開いた。 「はい」 「お前、ほんとに何者なんだよ」 声は低くなっていた。自分でも、まだ笑い話にしたいのか、確かめたいのか分からない。それでも美桜は答えず、ただ静かに微笑む。机上の書類の影が、二人の間に細く落ちた。
瓜二つの部下
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