静寂が、鼓膜を圧迫するほどに濃密だった。正樹は呼吸を忘れたまま、目の前の陽葵の瞳を見つめ続けていた。彼女の瞳の中で、天井の蛍光灯が小さく揺らいでいる。黒髪から漂う甘い香りが、理性の端を少しずつ浸食していく。陽葵は瞬き一つせず、真っ直ぐに正樹を見つめ返していた。その瞳の奥に、挑発するような光が宿った気がした。 「……先輩」 陽葵の唇がゆっくりと動く。その声は、静寂を切り裂くほどの静けさを持っていた。彼女はゆっくりと体を起こし、正樹の肩に手を置いた。そして、耳元に唇を寄せてくる。吐息が耳朶をくすぐる感覚。正樹の背筋に戦慄が走った。 「先輩……帰りたくないです」 その言葉が、正樹の脳髄を貫いた。低く、甘く、そして誘うような響き。彼が何度も何度も再生した、あの作品のクライマックスへの導入。残業シチュエーションの作品で、ヒロインが先輩を誘惑する決定的な台詞。正樹の体が硬直した。心臓が早鐘を打ち、血液が沸騰するかのように熱くなる。偶然なのか。彼女は何も知らないはずだ。ただの新入社員で、たまたま似ているだけのはずだ。でも、この台詞。このタイミング。この囁き方。全てが、正樹の記憶にある映像と完全に一致していた。 「……陽葵、君は」 正樹は掠れた声で問いかけようとした。しかし、言葉は続かなかった。陽葵が、さらに密着してきたからだ。彼女の胸が、正樹の腕に触れる。柔らかさと熱が、薄い布越しに伝わってくる。 「先輩……」 もう一度、名を呼ぶ声。その響きに含まれた熱意。あるいは、欲求。正樹は堪らず目を閉じた。理性と衝動が、頭の中で激しく火花を散らす。これは罠なのか。それとも、願ってもない誘いなのか。答えは出なかった。ただ一つ確かなのは、もう限界だということだった。正樹はゆっくりと目を開け、目の前の陽葵を見た。彼女は無垢な笑みを浮かべている。その表情の裏に何があるのか、正樹には読み取れなかった。読み取ろうとする思考そのものが、もう働かなくなっていた。ただ、熱い。体が、理性が、限界まで張り詰めている。正樹の手が、震えながら陽葵の肩を掴んだ。
瓜二つの部下
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