春菜が玄関先の段ボールを抱えたままリビングに入ると、先に来ていた健人が窓際で腕を組んでいた。まだ荷解きの途中なのに、空気だけが妙に整っていない。床に置かれた荷物の影が、ふたりの間に細い線を引いているみたいだった。 「まず、決めましょう」 春菜が言うと、健人は即座に振り返った。 「賛成。じゃあ、共有スペースの使い方だな」 「その前に、壁の高さです」 「は?」 「生活の区切りは必要です。視線も音も、ある程度は遮りたいので」 健人は呆れた顔をしたが、すぐに言い返す。 「そんなこと言い出したらキリがない。こっちはこっちで、動ける範囲が狭すぎるのは困る」 春菜はメジャーを手に取り、部屋の中央で止まった。 「じゃあ、ここまで」 「勝手に線を引くなよ」 「勝手に入ってこないなら、引く必要もありません」 健人は小さく舌打ちしたが、結局メモ帳を開く。 「共用の棚は上から二段ずつ。冷蔵庫の前は塞がない。ソファは……」 「ソファは夜九時以降、片方が使っていたらもう片方は声をかけること」 「なんで俺が声をかける前提なんだ」 「あなたの方が音が大きいからです」 「はあ? そっちこそ、静かな顔して細かい」 春菜は眉をひそめた。 「細かくしないと、守られないでしょう」 「守るとかじゃなくて、もう少し自然に暮らせないのか」 「自然にしていたら、あっという間に境界が曖昧になります」 その言葉に、健人の目が少しだけ細くなる。 「境界、ね。最初からそんなに壁を作る気か」 「壁ではなくルールです」 「似たようなもんだろ」 しばらく、時計の秒針だけがやけに大きく聞こえた。春菜は息を整え、メモ帳の端を指で押さえる。 「洗面所の使う順番も、朝の時間帯も決めておきたいです」 「俺はそこまで縛られたくない」 「縛るためではありません。ぶつからないためです」 「ぶつかる前提で話してる時点で、もう最悪なんだけど」 春菜は言い返しかけて、口を閉じた。否定したいのに、今さら引き下がるのも癪だった。 結局、ふたりは壁の位置ひとつ、声の大きさひとつにまで条件を書き足していった。譲歩らしい譲歩はなく、紙の上だけが妙に増えていく。 「これで全部です」 春菜がペンを置くと、健人も深く息を吐いた。 「全部、か。住む前から息苦しいな」 「嫌ならやめますか」 「やめない。ここまで決めたんだ、今さら引けない」 その返事が、余計に腹立たしかった。春菜は窓の外に視線を逃がす。まだ夕方の名残が残る空は明るいのに、部屋の中だけがやけに冷えている。 これから始まるのは共同生活のはずだった。けれど実際には、共同という言葉の周りに、境界線ばかりが増えていく。 春菜は手元の紙を見下ろしながら、この同居が思った以上に長引きそうだと、静かに確信していた。
ラストワン
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