エラベノベル堂

ラストワン

全年齢

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3章 / 全10

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翌朝、春菜がキッチンの扉を開けた瞬間、整えておいたはずの景色が崩れているのが目に入った。冷蔵庫のドアを開けると、昨日まで右の棚に寄せてあった自分の食材が、まとめて左側へ移されている。しかも、健人の飲み物と妙に近い。 「……何してるんですか」 背後で椅子を引く音がして、健人が顔を上げた。寝起きらしく髪は少し乱れているのに、視線だけは妙にまっすぐだ。 「何って、整理。空いてたから詰め直した」 「詰め直した、じゃありません。勝手に触らないでください」 健人は眉をひそめた。 「朝からそんなに怒ることか? 全部同じ棚に入ってたら、使いにくいだろ」 「使いにくいのはあなたです。私は配置を決めていました」 「決めすぎなんだよ。ラベルまで貼る必要ある?」 春菜は冷蔵庫の前に立ち、指先で棚を示した。 「必要です。誰がどれを使うか分からなくなるから」 「分からなくなるって、そんな大げさな」 「大げさではありません。順番が崩れると、管理しづらいんです」 健人はため息をつき、椅子の背にもたれた。 「管理、管理ってさ。ここ、職場じゃないんだけど」 その言い方に、春菜の頬が熱くなる。 「だからこそです。共同で暮らすなら、最低限の秩序が必要でしょう」 「最低限の秩序って言いながら、ほとんど全部決めてるじゃん」 「決めているのは、ぶつからないためです」 「ぶつかってる今の方が、よっぽど騒がしい」 言葉がぶつかった。たったそれだけなのに、キッチンの空気が一気に重くなる。春菜は冷蔵庫の扉をゆっくり閉めた。中の灯りが消える音が、妙に大きく聞こえる。 「じゃあ、あなたは好き勝手に置いていいとでも?」 「好き勝手じゃない。使いやすさを優先しただけだ」 「私にとっては使いにくいです」 「なら、お互い少しずつ合わせればいいだろ」 春菜は言いかけて、止まった。合わせる。その言葉が、なぜか胸の奥でざらつく。昨日までの細かい取り決めよりも、ずっと曖昧で、ずっと逃げ場がない。 健人もそれに気づいたのか、視線を逸らさずに続けた。 「……いちいち全部、先に潰そうとするから疲れるんだよ」 「潰しているのではなく、守っているだけです」 「その守り方が、相手を締め出してる」 春菜は息を呑んだ。反論はすぐ出てこなかった。代わりに、健人の手元に置かれたマグカップが目に入る。何気ないはずのその存在が、やけに近い。 互いに口を閉じたまま、しばらく冷蔵庫の低い唸りだけが響いていた。 「……今日は、戻します」 春菜がそう言うと、健人は少しだけ目を丸くした。 「戻すんだ」 「でも、次からは触る前に一言ください」 「そっちもな」 短いやり取りなのに、なぜか逃げるようには終わらなかった。春菜は棚を見つめたまま、自分の食材を抱え直す。 健人は何も言わずに立ち上がった。ただ、すれ違う瞬間に肩がかすかに触れた気がして、春菜は思わず呼吸を止めた。 たったそれだけで、相手の体温まで意識してしまう自分に、春菜は内心で舌打ちする。なのに、健人もまた同じように一瞬だけ足を止めたのが分かった。 些細な違和感だったはずなのに、もうただの違和感では済まない。二人はそれぞれの手に食材を持ったまま、互いの存在を意識せずにはいられなくなっていた。

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