夕方の気配が引き残る洗面所の前で、春菜は立ち止まった。中から聞こえる水の音が、やけに長い。洗濯機の回転音も重なって、まるでこの場所そのものを占領されているみたいだった。 「……まだ使ってるんですか」 扉の向こうに声をかけると、数拍遅れて健人が顔を出した。袖をまくったままの腕が濡れていて、作業の途中だと分かる。けれど、その表情は妙に平然としていた。 「使ってる。あと少し」 春菜は洗面台の端に置いていた自分のカゴを見た。干すために整えてあったタオルも、物干し用のスペースも、いつの間にか半分以上ふさがっている。 「あと少し、では困るんです。干す場所までなくなるので」 「そんなに急がなくてもいいだろ」 「急いでいるわけではありません。順番の問題です」 健人は洗濯機の上に視線を落としたまま、肩をすくめる。 「順番、順番って、夜の手前なんだから少しくらい融通きかせればいいのに」 「融通で片付けると、毎回同じことになります」 「毎回って、そんな大げさな」 春菜は言い返したいのをこらえ、壁際の空いた棚を見た。そこでなら干せると思っていたのに、健人の濡れた衣類が広がっている。小さな違和感が、目に見える形で積み上がっていた。 「私は先に使うつもりでした」 「俺だって、長く回してたんだ。終わるまで待てないのか」 「待てます。でも、待つ理由をこちらに押しつけないでください」 健人の眉がわずかに寄る。 「押しつけてるのはそっちだろ。こっちはちゃんと回してるのに、少しでも予定がずれると全部だめみたいな顔をする」 「だめとは言っていません。ですが、勝手に延びると困るんです」 「勝手って言うなよ」 声が少し強くなって、洗面所の白い壁に跳ね返った。春菜は一度息を吸い、カゴを抱え直す。 「では、今後は使う時間を前もって伝えてください」 「そっちもな。干すなら干すで、こっちの終わりを待ってくれ」 言いながらも健人は洗濯機の表示を確かめ、ようやく手を止めた。回転音が静かに落ちていく。 春菜は奪われた干し場を見つめたまま、唇を引き結ぶ。相手が正しいのか、自分が正しいのか、その答えがどこにも見つからない。ただ一つだけ分かるのは、どちらかが譲らなければ、この狭い共有部分はすぐに詰まるということだった。 健人が洗濯物を引き上げるたび、春菜は一歩下がる。春菜がカゴを抱え直すたび、健人は扉の前を譲りたくなさそうにする。 互いに正しさを主張するほど、距離はなくならない。むしろ、避けたいのに避けられない近さだけが、洗面所の空気に濃く残っていった。
ラストワン
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