エラベノベル堂

ラストワン

全年齢

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5章 / 全10

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夜の静けさが部屋に沈みきるころ、春菜は廊下の先で足を止めた。リビングの明かりは落ちているのに、電子レンジの低い唸りだけが壁越しに響いてくる。小さな赤い数字が点いては消え、また点いた。 「……またですか」 独り言のつもりだったのに、扉の向こうから健人の声が返った。 「また、って何だよ」 「その時間に使うなら、せめて一言くらい」 健人がリビング側から顔を出す。眠そうな目つきのまま、片手で額を押さえていた。 「一言って、お前が勝手に使ってるみたいに言うな。こっちは腹が減ってるだけだ」 「夜中に温める必要があるんですか」 「ある。寝る前に食べなきゃ落ち着かない」 春菜は言葉を失いかけ、それでも引かなかった。 「でも、音が大きいです。廊下まで響いてます」 「そっちこそ、そんなに神経質なら耳栓でもして寝ろよ」 「あなたが気をつければ済む話です」 「気をつけてる。これ以上どうしろって言うんだ」 二人の声が少しずつ上がっていく。廊下とリビングの境目に立ったまま、どちらも一歩も引かない。 「深夜に使うなら、最初から控えてください」 「生活してんだよ。お前の都合だけで回してるわけじゃない」 「私の都合だけの話をしているわけでもありません」 「じゃあ何なんだよ」 春菜は息を吸った。怒っている。確かに怒っているのに、電子レンジの前で立つ健人の横顔が、やけに普通に見えてしまう。眠気に滲んだ視線も、苛立ちでこわばった口元も、妙に腹立たしいのに、目を逸らせない。 「……うるさいからです」 「知ってるよ」 即答されて、春菜は言い返せなくなった。 「でも、そんなに嫌なら、どうして毎回そこに立って見張るんだ」 「見張ってなんか」 「立ってるだろ。俺が使うたび、必ず気づく」 その一言が、胸の奥を妙にかき乱した。春菜は一瞬だけ口を閉じる。 「たまたまです」 「たまたま、ね」 健人は苦笑にも似た顔をしたまま、電子レンジの表示を見た。熱が終わるまでの数十秒が、やけに長い。 「……お前もさ」 「何ですか」 「俺が遅いとかうるさいとか、ちゃんと言うのは別にいい。でも、無視はするな」 春菜は目を瞬いた。 「無視なんて」 「してる時あるだろ。挨拶もしないで、ずっと気配だけで怒ってる」 図星だった。春菜は唇を噛む。電子レンジが終わりを告げる音が、やけに明るく響いた。 「……次からは、少しだけ小さくしてください」 「少しだけな」 健人が容器を取り出す。湯気の立つ匂いが、狭い空間にふわりと広がった。春菜はその匂いから逃げるように半歩下がるが、完全には離れない。 「それと」 「まだあるのかよ」 「終わったら、扉は閉めてください」 「そこまで言うなら、お前も眠れないくらい気にしてるって認めろよ」 春菜は返事をしなかった。できなかったのではなく、したくなかった。ただ、健人の声を無視できない自分が悔しい。怒鳴り合ったはずなのに、相手の生活の音まで耳に残っている。 健人もまた、文句を言いながらすぐには動かなかった。二人の間にある細い境目だけが、夜の暗さの中で妙にくっきりしている。 「……本当に、うるさいんですから」 春菜がぼそりと言うと、健人は小さく笑った。 「聞こえてる」 その笑い声が、かえって気に障る。なのに、春菜はその場を離れられなかった。意地と意識が絡まったまま、深夜の空気だけが静かに濃くなっていく。

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