ふいに、低い唸りが途切れた。 「……え」 春菜が顔を上げるより先に、リビングの明かりもわずかに揺れた。暖房の風が止まり、さっきまであったぬくもりが、指の先からすっと抜けていく。 健人も容器を持ったまま動きを止めた。 「今の、切れた?」 「たぶん……」 春菜は腕を抱いた。廊下の空気が思った以上に冷たい。壁際に寄せた足元から、じわじわと寒さが這い上がってくる。 「まさか停電ですか」 「いや、廊下の電気はついてる。暖房だけだ」 健人が天井を見上げ、舌打ちする。 「この建物、古いって聞いてたけど、ここまでとはな」 春菜は唇を結んだ。次に何を言うべきか迷うより早く、息が白く見えそうな気がした。 「……部屋、寒すぎます」 「同感」 健人は躊躇したあと、扉の内側から薄い毛布を引っ張り出した。色は地味で、端が少しほつれている。 「これ、使うしかないか」 「一枚しかないんですか」 「あるわけないだろ。引っ越し直後だぞ」 春菜は不満げに見上げたが、反論する気力が少し削がれていた。部屋に戻っても、寒さを増やすだけだろう。二人は同時に共用廊下の端へ目を向けた。そこなら、まだ壁の陰が風を和らげる。 「……とりあえず、そこに」 「言われなくても分かってる」 健人が毛布を広げる。春菜が受け取ろうとして指先が触れ、互いに小さく肩を揺らした。 「半分だけですから」 「その言い方、今は逆にむかつくな」 「なら返してください」 「返したらもっと寒いだろ」 結局、毛布は二人の間で引かれた線みたいにたわんだまま落ち着いた。春菜はその端を胸元まで引き上げ、健人は反対側から肩を包む。近いのに、離れているようで、妙に落ち着かない。 「……寒いの、苦手なんですか」 春菜がぽつりと言うと、健人は少しだけ目を逸らした。 「別に。平気だ」 「平気な顔に見えません」 「そっちこそ、強がるのやめろよ」 一瞬、言葉が詰まる。共用廊下の先にある非常灯だけが、薄く二人を照らしていた。 「……私は、平気です」 「嘘だろ」 「嘘じゃありません」 「じゃあ、なんでそんなに手が冷たい」 春菜は返せなかった。毛布越しでも、相手の熱が少しだけ伝わってくる。それが悔しくて、でも離せない。 健人も同じだったのか、しばらく黙ったあと、低い声で言った。 「こういうの、面倒だな」 「何がですか」 「二人でいる方が、寒さをごまかせる」 春菜は目を瞬いた。いつもなら突っかかる言い方なのに、今は妙に真っ直ぐ聞こえる。 「……それ、褒めてます?」 「さあな」 健人は毛布の端を少しだけ持ち上げた。春菜はためらい、結局、その下に肩を寄せる。意地を張る余裕より、今は冷えないことの方がずっと大事だった。 毛布一枚しかない現実が、二人の距離を無理やり縮めていく。春菜はその不便さに顔をしかめながらも、初めて健人の息づかいがこんなにも近い場所にあると知った。
ラストワン
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