エラベノベル堂

ラストワン

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8章 / 全10

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毛布の端が、また少しだけ引かれた。 「……ちょっと、そっち寒いんですけど」 春菜が言うと、健人は眠そうな目のまま肩をすくめた。 「引いてない。風が入ってくるだけだろ」 「じゃあ、もっと寄ってください」 口にしてから、春菜は自分で少し驚いた。言い方が妙に素直だったからだ。健人も同じように目を瞬かせ、それから小さく笑った。 「今さら命令かよ」 「命令ではありません。提案です」 「似たようなもんだな」 そう言いながらも、健人は毛布を引き寄せる代わりに、そっと自分の肩を春菜の方へ傾けた。その動きは大げさでもなく、けれど妙に迷いがなかった。 春菜は、毛布の下で息を整える。さっきまでただ寒さをしのぐための布だったものが、今は二人の間に残っていた角を少し丸くしているみたいだった。 「……その、さっきの話ですけど」 「ん」 「私が片付けを整えていたのは、別に監視したかったわけじゃないです」 健人は目を閉じたまま、黙って聞いている。 「散らかっていると、どこから手をつけていいか分からなくなるでしょう。だから、次に使う人が困らないようにしていました」 「俺がか」 「ええ。あなたが、です」 春菜は言い切ってから、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。こんなふうに説明したのは初めてかもしれない。いつもなら、相手が勝手に察しろと思っていたのに。 健人はしばらく黙っていた。毛布の影で表情は見えにくい。それでも、息を吐く音だけがやけに近い。 「……そういうの、先に言えよ」 「言ったところで、信じないと思っていました」 「まぁな」 即答されて、春菜は少しだけ唇を結ぶ。けれど、次の言葉は意外なほど柔らかかった。 「でも、毎回ちゃんと戻ってたんだな。勝手に触って悪かった」 春菜は瞬きをした。 「謝るんですか」 「寒いと、少しは素直になる」 「それはいいことなのか、よく分かりません」 「お前もだろ」 健人が短く笑う。その声に、春菜の胸の奥の固いところがほんの少しだけ緩んだ。 互いに敵だと思っていた相手が、実は見えないところで手を貸していた。そう気づくと、これまでの言い争いが全部無意味だったとは思えないのに、ただの傷みでもなくなっていく。 春菜は毛布の端を指でつまみ、視線を落とした。 「……あなたも、体調を気にしてくれていたんですね」 「気にしてた。寝不足っぽかったし」 「そんなふうに見えてましたか」 「見えてた。だから、余計に放っておけなかった」 その一言が、妙に胸に残る。春菜は返す言葉を探したが、うまく見つからない。 健人も同じだったのか、毛布の向こうで少しだけ呼吸を整えた。 「なぁ」 「何ですか」 「お前、毎回ちゃんと整えてたの、俺のためでもあったんだろ」 春菜は否定できなかった。 「……少しは」 「少し、か」 「そんなに大きな意味ではありません」 「でも、あったんだな」 その言い方が、思った以上に優しかった。春菜は顔を上げる。薄暗い共用部の中で、健人の横顔がいつもより近く見えた。まだ笑うには早い距離なのに、もう突き放したいとは思わない。 毛布がわずかに重なり、二人の肩が触れそうで触れない。けれど、その曖昧さが今は不思議と居心地よかった。 「……健人さん」 「ん?」 「次からは、勝手に片付けを崩さないでください」 「それ、まだ言うのかよ」 「大事なことです」 「分かった。ちゃんと言う」 春菜は小さくうなずいた。 誰より生活を乱す相手だと思っていたのに、実際には誰よりも気づかれないところを支えていたのかもしれない。そう思った瞬間、春菜は自分がずっと張りつめていたことに気づく。 健人もまた、毛布の下で少しだけ肩の力を抜いた。 「……寒いの、まだ平気じゃないだろ」 「あなたも、です」 「じゃあ、もう少しだけこのままか」 春菜は返事の代わりに、毛布の端をほんの少しだけ握り直した。敵対していたはずの相手と、こんなふうに同じ寒さを分け合うなんて、少しだけ変だ。けれど、その変さが今は嫌いじゃない。 共用部の静けさの中で、二人はまだ言葉にできない距離を、少しずつ縮めていた。

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