翌朝の昇降口は、登校してくる生徒たちの靴音でにぎやかだった。濡れた床に差し込む光が白く反射して、少し目が眩む。涼は上履きに履き替えようとしゃがんだところで、すぐ隣に同じように立ち止まった美咲に気づいた。 「おはよう、涼」 「……早いな」 「普通だよ。涼が遅いだけ」 「失礼だな」 軽口はいつも通りなのに、今日は妙に間があった。美咲は片足を引いて靴ひもを整えながら、何でもないふりで笑っている。その笑い方が、昨日までより少しだけ不自然に見えた。 涼は上履きを履き終えると、何気ないふうを装って視線を向けた。 「お前、今ちょっと変だぞ」 「どこが?」 「いや、なんというか……笑い方」 美咲の指が、一瞬だけ止まる。ほんの短い揺れだったが、涼には見逃せなかった。さっきまで平然としていたはずの顔に、言葉にできない影が薄く差している。 「別に」 「別に、じゃないだろ」 「涼って、意外としつこいんだね」 「話をそらすな」 「そらしてないよ。ちょっと、考え事してただけ」 「考え事?」 「うん」 それ以上は言わない、とでもいうように、美咲は靴箱を閉めた。けれどその動作が妙にぎこちない。いつもの余裕がほんの少しだけ外れている。その隙間に、涼の意識が吸い寄せられた。 「隠してるだろ」 「え?」 「何か」 美咲は一瞬、言葉を失ったように目を見開く。けれどすぐに、いつもの調子に戻ろうとして口元だけを持ち上げた。 「そんなことないよ」 「嘘だ」 「ひどいなあ。朝から疑われるなんて」 「疑ってるんじゃない。気になるだけだ」 その言葉が、思ったより素直に落ちた。涼自身が少し驚くくらいに。美咲は、わずかに目を細める。 「ふうん」 「ふうん、ってなんだ」 「涼が、私のこと気にしてくれてるんだなって」 からかう声なのに、なぜか胸の奥がざわついた。涼は返そうとした言葉を飲み込む。目の前の美咲は、笑っているのにどこか遠い。その遠さを、初めてきちんと確かめたくなった。 「なあ、美咲」 「なに」 「お前、ほんとは何を考えてる」 問いかけた瞬間、相手のまぶたがわずかに揺れた。答えを探しているのではない。答えを出す前に、何かを隠そうとしている顔だった。 「……秘密」 「はぐらかすな」 「だって、そういう顔してるから」 「どういう顔だよ」 「知りたそうな顔」 その言葉に、涼は息を止めた。知りたい。たしかにそうだ。昨日までなら、少し気になる程度で終わっていたはずなのに、今は違う。美咲が笑ってごまかすたび、その奥にあるものを見たくなる。見えていないのに、見落としてはいけない気がする。 涼は自分の胸の内に生まれた熱を、ようやく認めた。 相手の心を知りたい。 ただの好奇心ではない。曖昧なまま流してしまうには、もう遅い。美咲の不自然な笑みの向こう側に、確かめたい何かがある。その何かに触れなければ、きっとこのままではいられない。 「……なんだよ、それ」 美咲が小さく笑う。今度の笑いは、さっきより少しだけ本物に近かった。 「涼、やっと面白くなってきたね」 涼は返事をしなかった。ただ、美咲の横顔を見つめたまま、昇降口のざわめきの中で、自分の中の静かな欲求をはっきりと受け止めていた。
透明な境界線
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