エラベノベル堂

透明な境界線

全年齢

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6章 / 全10

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傘を忘れた、と気づいたのは、駅前の屋根の下に駆け込んでからだった。涼は制服の肩に落ちた細かな雨粒を見下ろし、遅れてため息をつく。 「最悪だな」 「ほんと。私も」 隣では美咲が、濡れた前髪を指で払っていた。空は鈍い灰色で、駅の出入口から流れてくる人の波だけがやけに騒がしい。屋根の下は狭く、二人の距離も自然と近い。 「お前、傘は」 「ない。涼は」 「ない」 「じゃあ、仲間だね」 「嬉しくない」 軽口を交わしても、雨音がそれをすぐに薄めていく。涼は濡れた袖を見ながら、さっきまでの空気を思い出した。言葉より先に確かめ合った沈黙。その続きが、今もまだここに残っている気がした。 美咲はしばらく黙ってから、ぽつりと言う。 「……私さ」 涼が顔を上げると、彼女は雨の向こうを見ていた。 「能力を使うたび、怖かった」 「怖い?」 「うん。相手の本音って、優しいことばかりじゃないから」 その声は静かだったのに、指先だけが少し強張っているのがわかった。 「見たくないものまで見えちゃうと、なんか、自分が踏み込んだみたいでさ。嫌われる前に、こっちが怖くなる」 涼はその言葉を、すぐには返せなかった。冗談の形を借りてきた彼女が、こんなふうに自分の弱さを置くのは初めてだったからだ。 「……逃げてたのか」 「うん、少し」 美咲は苦笑した。 「涼は、そういうの嫌い?」 「嫌いなわけないだろ」 言ってから、涼自身が少し驚いた。あまりに迷いがなかった。 美咲がこちらを見た。雨の音に紛れて、息を呑む気配だけが近い。 「そっか」 それだけで、肩の力がふっと抜けたようだった。 涼は屋根の端へ落ちる雨筋を見てから、改めて美咲に向き直る。 「俺も、見えてるものばかり信じるのは好きじゃない」 「じゃあ、何を信じるの」 「……今の、お前の言葉」 美咲は目を伏せ、それから小さく笑った。笑い声は雨にほどけるみたいに柔らかい。 「なにそれ。ずるい」 「どこがだ」 「そんなふうに言われたら、信じちゃう」 涼は返事をしなかった。返せなかったのではない。返すより先に、目の前の沈黙が心地よくなっていた。雨宿りのはずなのに、逃げ込んだ先で、ようやく互いの輪郭がはっきりしていく。 美咲は少しだけ身を寄せた。触れるほどではない。けれど、そこにいる、と確かめられる距離だった。 「涼」 「なんだ」 「ありがと」 「何にだ」 「怖がってる私を、変に扱わないでくれたこと」 涼は視線を外し、濡れた靴先を見た。 「別に。普通だ」 「ううん。普通じゃないよ」 その言葉に、胸の奥が静かに熱を持つ。言葉を尽くしたわけでもないのに、気まずさはもう薄れていた。代わりに残ったのは、互いに沈黙を預けても壊れないという、不思議な確信だった。 雨はまだ止まない。けれど、涼はもう急いで帰る気にはなれなかった。屋根の下で並ぶ二人の間に、何も言わずとも続いていくものがある。そんな気配だけが、夕方の駅前に静かに満ちていた。

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