扉の前で、涼は一度だけ手にした紙袋を見下ろした。課題をまとめたプリントの束は、雨上がりの空気で少しだけ湿っている気がしたが、遅れた言い訳にはならない。インターホンを押すほど大げさでもないのに、この家の前に立つだけで妙に胸が落ち着かない。 「涼?」 内側から声がして、扉がすぐに開いた。美咲は驚いたような顔をしたあと、すぐいつもの軽い笑みを浮かべる。 「ほんとに来たんだ」 「課題、渡すだけだろ」 「それだけ?」 「……それだけじゃないかもしれない」 言ってから、涼は自分で少しだけ息を止めた。美咲の目が、ほんのわずかに丸くなる。 「じゃあ、入って」 部屋に通されると、外の湿った匂いが背中で薄れていく。机の上はきちんと片づいていて、壁際の本棚だけが静かに並んでいた。涼は靴を脱いだまま立ち尽くし、紙袋を差し出す。 「遅くなった」 「ありがとう。助かる」 受け取る指先が、前より自然だった。そのことだけで、胸の奥が少し緩む。 二人は向かい合って座った。机を挟まず、けれど近すぎもしない距離だ。美咲は膝の上で手を組み、涼は視線の置き場を探して、それから結局、彼女の顔を見る。 「なあ」 「うん」 「今日、言いそびれたことがある」 美咲は何も言わず、ただ続きを待った。その静けさが、雨音よりやわらかい。 涼は息を吸う。自分でも、何をこんなに怖がっていたのか分からなくなるほど、声は静かだった。 「俺、お前に惹かれてる」 言い切った瞬間、部屋の空気が変わった気がした。逃げ道を残さない言葉だったはずなのに、不思議と苦しくなかった。むしろ、肩に入っていた力が抜けていく。ずっと曖昧なまま抱えていたものに、ようやく名前を与えられたみたいだった。 美咲は目を逸らさない。けれど、頬の色が少しだけ変わる。 「……今、ちゃんと言ったね」 「言わないと、たぶん駄目だと思った」 「うん」 その一言だけで、美咲は少し笑った。からかうでもなく、試すでもない、静かな笑みだった。 「涼らしい」 「どういう意味だ」 「逃げないと決めた顔してる」 涼は苦笑する。否定しようとして、やめた。たぶん本当に、そう見えたのだろう。 美咲はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。 「私も、言っていい?」 「何を」 「まだ、うまくは言えないけど」 そこまで言って、彼女は視線を落とす。けれど、手は膝の上でしっかり組まれたままだ。 「涼が来てくれるの、ちょっと……うれしい」 その言葉に、涼の胸が静かに鳴った。たったそれだけのことが、今はひどくまぶしい。 「そっか」 「うん」 「なら、よかった」 美咲は顔を上げる。部屋の灯りに照らされた目が、さっきより少しだけ近く感じた。言葉にした途端に消えてしまいそうな不安より、口に出したことで確かになる熱のほうが、ずっと強い。 窓の外では、まだ夜が深まりきらずに街の灯りを滲ませていた。涼は紙袋を机の端へ置き直し、もう一度だけ美咲を見た。 「美咲」 「なに」 「今日は、帰る前にもう少しだけ話せるか」 彼女は少しだけ驚いた顔をして、それからうなずく。 「うん。話そう」 その返事が落ちた瞬間、涼はようやく、自分の中にあった固いものがほどけていくのを感じていた。
透明な境界線
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