エラベノベル堂

透明な境界線

全年齢

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8章 / 全10

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部屋の灯りを少し落とすだけで、さっきまでの空気は別物みたいに静かになった。窓の外に滲む街の光が薄く、テーブルの上の影も柔らかい。涼は背もたれにもたれず、きちんと座ったまま美咲を見た。 「暗いと、ちょっと落ち着くね」 「見え方が変わるからか」 「うん。たぶん、心のほうに意識が向くんだと思う」 美咲はそう言って、膝の上で指を組んだ。昼間よりも声が小さい。けれど、逃げるみたいな弱さではなかった。 「涼。ちゃんと整理しておきたいの」 「何をだ」 「私の能力のこと。相手を暴くためのものじゃないって」 涼はすぐに頷かなかった。確かめるように、美咲の顔を見る。 「最初は、試してるだけだと思ってた」 「うん。そう見えても仕方ない」 「でも、違うんだろ」 「……違う。私は、怖かっただけ」 美咲の視線が一度だけ揺れた。 「見えたものが本音だって、全部そのまま受け取ったら、すぐに壊れる気がしてた。嫌われる前に離れれば、傷つかないって思ってたの」 「それで距離を取ってたのか」 「うん。誰かに拒まれるのが、思ってたより怖かった」 涼はその言葉を受け止めるみたいに、ゆっくり息を吐いた。 「責めないよ」 「……うん」 「怖いなら、怖いでいいだろ」 「涼って、そういうとき本当にずるい」 「何がだ」 「普通に受け止めるから」 美咲は少し笑った。けれどその笑いは、いつもの軽さとは違っていた。安心したあとに残る、ほどけるような笑みだった。 沈黙が落ちても、今度は気まずくならない。涼はテーブルの端に置いた自分の手を見て、それから何気ないふうを装って指を少し動かした。 「触れてもいいのか」 美咲の目が上がる。 「聞くんだ」 「勝手にするよりはいいだろ」 「……うん。聞いてくれるなら、いい」 その返事だけで、胸の奥が静かに熱くなる。涼は少しだけ身を乗り出し、今度は迷わず指先を重ねた。ほんの軽い接触なのに、互いの気配がはっきり近づく。 美咲は目を伏せたまま、息を整えた。 「近いほど、見えやすいんだよね」 「前にそう言ってたな」 「うん。でも、今は見えなくてもわかる気がする」 「何が」 「涼が、ちゃんと私を見てくれてること」 涼は返事の代わりに、指先に少しだけ力を込めた。強く握るほどではない。離さないと伝えるには、十分な強さだった。 「俺も、確かめたいことがある」 「なに」 「お前が離れないなら、俺も離れない」 美咲は一瞬だけ言葉を失い、それから困ったように目を細める。 「そういうこと、さらっと言わないで」 「無理だな」 「……ほんとに、ずるい」 笑いながらも、美咲は手を引かなかった。むしろ、涼の指先を受け止めるみたいに、そっと重ね直す。その慎重さが、かえって親密だった。 触れるかどうかを迷う時間が、こんなにも大事だったなんて、涼は知らなかった。急いで近づくより、確かめながら一歩ずつ寄るほうが、ずっと深く相手に届く。そう思えた瞬間、部屋の静けさがやけにあたたかく感じられた。 「美咲」 「なに」 「今日は、もう少しこのままでいいか」 彼女は少しだけ頷く。灯りの落ちた部屋で、その仕草は驚くほどはっきり見えた。 「うん。いいよ」 涼は指先を離さないまま、静かに呼吸を整えた。確かめるほどに近づいていくこの距離が、まだ名前のないまま、二人の間で確かな形を持ち始めていた。

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