翌朝の光は、昨夜の名残をうすく洗い流していた。窓辺のカーテンが風に揺れるたび、あの白い霧はもうほとんど見えない。なのに、エリナの胸の奥にはまだ、言いかけて飲み込んだ言葉のざらつきが残っていた。 「……起きてるわよ」 返事はすぐに来なかった。椅子に座ったまま書類へ目を落としていたアランが、ようやく顔を上げる。昨夜よりも輪郭のくっきりした顔は、やはり無愛想に見える。けれど、その目の下には浅い疲れがあった。 「眠れなかったの?」 「あなたには関係ない」 「関係なくはないでしょう。少なくとも、私たちは同じ部屋で同じ呪いの余波を受けてる」 言い返そうとして、エリナは口をつぐんだ。アランの指先が、積み上がった羊皮紙の端を整えている。戦の記録、被害報告、領地から届いた書状。どれも彼の机を埋めていて、きれいに片づけられた余白なんてどこにもない。 「毎日、こんなにあるの?」 「戦争が終わったから片づくわけじゃない」 淡々とした声だった。だがその一言だけで、エリナは理解してしまう。勝った側にも、負けた側にも、まだ終わっていないものが山ほど残るのだと。処理しなければならない痛み、責任、待つ人々の顔。その全部を、彼は王子として一人で受け止めている。 「ふーん。ずっと冷たい顔をしてるから、暇なのかと思った」 「暇なら、もっと楽だ」 アランはペンを置いた。その動きに合わせるように、かすかな赤が灯る。怒りというより、疲労に近い熱だった。 エリナは目を細めた。 「私だって、好きでここに来たわけじゃない」 「知っている」 即答に、彼女は少しだけ拍子抜けする。 「じゃあ、何を知ってるの」 「和平交渉で何度も前に出たこと。だが、うまくいかなかったことも」 静かな声だった。責める響きはない。けれど、エリナの喉の奥がひりつく。 「失敗したのよ。私が」 「一人で背負うな」 思わず顔を上げた。アランは視線を逸らさない。ただ、その目の奥には、昨夜まで見えなかったものがあった。冷淡さではない。見抜こうとする慎重さだ。 「祖国を守れなかったのは、私の力が足りなかったから」 エリナは笑おうとしたが、うまくいかなかった。 「そう言うしかないじゃない。王女が弱音を吐いたら、誰が前を向くの」 「前を向くために、折れたままでいる必要はない」 その言葉に、胸のどこかが小さく揺れた。白い霧が出るほどではない。ただ、息の仕方を忘れたみたいに、少しだけ苦しくなる。 エリナは視線を落とし、手のひらを握りしめた。 「……敵国の王子に慰められるなんて、最悪」 「同感だ」 そう言ったアランの口元が、ほんのわずかに緩む。笑みと呼ぶには控えめで、けれど確かに人間の気配を帯びた表情だった。 その瞬間、エリナは思う。目の前の男は、冷たい鎧を着ているのではない。ただ、壊れないように硬くあろうとしているだけなのだと。 アランもまた、彼女の声に混じる強がりの奥を見ていた。祖国を失った悲しみではなく、守れなかった悔しさ。責められることに慣れた者だけが持つ、静かな痛み。 二人の間にある空気は、まだぎこちない。けれど昨夜までの敵意だけでは、もう説明できなかった。 「エリナ」 初めて名前で呼ばれて、彼女は肩を揺らした。 「なによ」 「おまえは、敵だから黙っているんじゃない。黙らないと壊れるから黙っている」 言い当てられた気がして、エリナは目を見開く。 「……生意気」 「お互い様だ」 窓の外で、城の鐘が低く鳴った。朝の忙しさが始まる合図らしい。アランは書類を一枚持ち上げ、深く息を吐く。 「私は行く。今日も処理がある」 「ええ、王子様は大変ね」 皮肉を返したのに、胸の奥では妙に熱が残った。エリナは、去ろうとする背中を見送りながら、確かに感じていた。彼はもう、単なる敵国の王子ではない。一人の人間として、疲れ、迷い、それでも立っている。 それは、彼女にとって思いがけない始まりだった。
涙が溶ける場所
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