訓練場へ足を踏み入れた瞬間、金属が打ち合う高い音と、湿った土の匂いがぶつかってきた。整列した兵たちは、人間の鎧と魔族の装束が半々に混じり、互いの間に見えない距離を保ったまま、視察の準備を進めている。夕方の光は斜めに差し、剣の刃や槍先を鈍く光らせていた。 エリナは無意識に背筋を伸ばした。ここにいる誰もが、彼女を見ている。いや、正確には彼女の立場を見ているのだ。政略結婚のために敵国へ渡った魔族の王女。失敗した和平の象徴。そういう名前のない札を、視線のひとつひとつが胸元へ貼りつけてくる。 「来たか」 低く言ったアランの声は、すぐ隣から聞こえた。彼は視察用の外套を肩にかけ、兵の列を見渡している。だが、その目はすぐにエリナの周囲に集まる空気の変化を捉えたようだった。 白い霧が、胸の奥でかすかに揺れる。 「平気よ」 言ったそばから、平気ではないと告げるように霧が濃くなる。人間の兵のひとりが、ぎこちなく目を逸らした。魔族側の若い兵が、こわばった表情のまま小さく舌打ちする。 「王女殿下に視察を受けるのが不満か」 誰かがそう言った。声は小さかったが、訓練場には響いた。別の誰かが肩をすくめる。緊張は、ひとつ火がつけば一斉に燃え広がる乾いた藁みたいだった。 エリナは胸の奥が痛むのを感じた。自分のせいで、空気がまた悪くなっている。そう思った瞬間、霧が足元へ落ち、白く滲んだ。 「やめておけ」 アランが一歩前へ出た。列の前に立ち、エリナと兵たちのあいだを塞ぐように。 「彼女を責めるなら、まずおまえたちの不満を俺に言え」 ざわり、と訓練場が揺れた。人間の兵たちは驚き、魔族の兵たちは目を細める。エリナも思わずアランを見た。 「ちょっと、何を」 「黙っていろ」 「命令しないで」 言い返すと、赤い熱が彼の背中のあたりで揺れた。だがその熱は怒りというより、盾のように広がっていく。 「おまえが前に立つと、余計に標的になる」 「だからって、私を子どもみたいに下げる気?」 「そうは言っていない」 アランは振り返らないまま、兵たちへ視線を向けた。 「視察は公平に行う。種族で動きは変えない。文句があるなら、剣でなく言葉で示せ」 その一言で、列の前列にいた何人かの兵が息を呑んだ。エリナは、胸の奥で白い霧がふっと静まるのを感じる。自分を庇うために前へ出る。その事実が、妙に熱かった。 「……珍しいのね」 小さく呟くと、アランはようやくこちらへ目を向けた。 「何がだ」 「あなたが、私の味方みたいに見えるなんて」 「見えるだけだ」 素っ気ない返事だった。けれど、彼はそのまま一歩も退かない。エリナはしばらく彼の背中を見つめ、それから兵たちへ顔を上げた。もう、ただ耐えるだけではいけない。少なくとも、この場では。 「私もここにいる以上、逃げないわ」 そう言うと、魔族側の兵のひとりが少しだけ目を見開いた。人間側の列からは、まだ疑いの色が消えない。それでも、空気の針先はわずかに鈍った。 訓練の準備を進める号令が響く。誰かが木剣を並べ、誰かが的を立てる。騒がしさの中で、エリナは隣に並ぶアランの肩を見た。彼はあくまで無表情だが、その立ち位置だけは明確だった。彼女の少し前、両陣営のあいだ。 「さっきのは、助かったわ」 「礼を言うなら、もう少し素直にしろ」 「無理」 「知っている」 短いやり取りに、霧も炎も大きくは揺れなかった。ただ、互いの存在が同じ線の上に乗った感覚だけが残る。エリナはそれを、初めて見る橋の形だと思った。まだ脆い。けれど、同じ側に立てる。そんな感触が、視察の始まりを静かに変えていった。
涙が溶ける場所
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