書庫の扉を押し開けた瞬間、乾いた紙の匂いが鼻先をくすぐった。夜も更けているはずなのに、棚のあいだにはまだ灯りがいくつも残り、細い影が床に格子を落としている。エリナは厚い帳簿を抱えたまま、思わず小さく息を吐いた。 「こんな時間まで残ってるなんて、あなたも物好きね」 机の向こうで書類をめくっていたアランが顔を上げる。相変わらず無愛想だが、目の下には昼より深い疲れがある。 「おまえもだろ」 「私は調べ物をしてるだけ」 「俺も同じだ」 短い言い合いのあと、二人は同じ卓に紙束を広げた。そこにあったのは、政略結婚に反対した貴族たちの古い記録だった。名前を追うほど、呪いの夜に見たあの古老の言葉が胸に引っかかる。祝福ではなく、試し。最初から、互いを理解できるかを測るための儀礼だったのではないか。 「……偶然じゃない?」 エリナが呟くと、アランの指が止まった。 「この書き方、妙だな。反対派が潰されたあとも、同じ文言が残っている」 「残したかったのよ。記録として」 「違う。警告としてだ」 その瞬間、エリナの胸がきゅっと締まった。白い霧が、卓の端でかすかに揺れる。アランも同時に顔をしかめ、赤い熱を押し殺すように息を吐いた。 「何、その顔」 「おまえこそ」 言い返したはずなのに、エリナの喉は妙に痛かった。ページの文字がにじんで見える。相手の思考に触れたわけでもないのに、胸の奥へ、冷たい痛みが流れ込んでくる。 アランが紙を押さえる手に力を入れた。 「……これ、まずいな」 「何が」 「俺が苛立つと、おまえの霧が濃くなる。おまえが怯えると、俺の熱が上がる。さっきから、さっきより強い」 エリナは唇を噛む。言われてみれば、確かにそうだ。書庫の静けさの中で、互いの感情だけがやけに鮮明に響いている。 「つまり、私たち、隠し事ができないってこと?」 「少なくとも、感情だけはな」 「最悪」 「同感だ」 なのに、アランの声はさっきより少しだけ低く、落ち着いていた。エリナはその落ち着きに安心しかけて、すぐに胸の奥が熱くなるのを感じる。彼の疲労、苛立ち、そしてそれを抑え込もうとする硬さが、霧のように自分の内側へ染みてくる。 「あなた、さっきから何考えてるの」 「おまえに言うと、余計に揺れる」 「ふざけないで」 「ふざけてない」 アランは珍しく言葉を切り、視線を落とした。 「……守るべきものが増えると、面倒だ」 その一言に、エリナの胸が大きく跳ねた。面倒、なんて言い方はひどい。なのに、その熱は嘘じゃない。彼の胸の奥で渦巻く苦しみが、こちらにも流れ込んでくる。失敗を重ねれば責められること。守りたいのに、守れなかった記憶が残ること。そこに触れた瞬間、白い霧がふわりと広がった。 「……私だって同じよ」 エリナは目を伏せたまま言った。 「背負うって、きれいな言葉じゃない。重いだけ」 アランは答えない。けれど沈黙の中で、赤い熱が少しだけ下がったのが分かる。 ページの端を握る指先が震える。互いの苦しみが、まるで同じ器に注がれた水みたいに胸へ満ちていく。 「理解しようとすると、余計に苦しくなるのね」 「だが、目を逸らすよりはましだ」 エリナは顔を上げた。見上げた先のアランは、ひどく疲れているのに、逃げる気配がない。 「じゃあ、逃げないでよ」 「最初からそのつもりだ」 そう返した声は、思ったより柔らかかった。書庫の灯りが揺れ、白い霧と赤い熱が、互いを探るように静かに重なる。エリナは胸の奥に広がる痛みをこらえながら、古い記録の最後の一行へ視線を落とした。そこには、薄れかけた字で、理解なき婚姻はいつか崩れると記されている。 「……脅しにしては、趣味が悪いわね」 「そうだな」 アランが立ち上がりかけ、ふと動きを止める。 「だが、ただの脅しとも思えない」 「ええ」 エリナは霧の残る卓を見つめたまま、ゆっくり息を吸った。隠していたものは、もうきっと隠せない。そう悟った夜の静けさが、やけに深く書庫に沈んでいた。
涙が溶ける場所
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