夜明け前の空気は、石壁に残った冷えをそのまま喉へ押しつけてくるようだった。エリナは外套の襟を握りしめ、城外へ続く細い道をたどる。眠気は薄いのに、胸の奥だけが妙にざわついていた。 「こんなところまで来るなんて、無茶だな」 後ろから追いついたアランの声は低い。だが、言葉とは裏腹に足取りは静かだった。 「あなたこそ、ついて来なくてよかったのに」 「一人で行かせるほうが無茶だ」 素っ気ない返事に、エリナは少しだけ口元をゆるめた。城を離れるにつれ、昨夜までの書庫の匂いも消えていく。代わりに広がったのは、土と草の混じる、乾いた風だった。 やがて視界が開ける。かつて戦があった場所。焼けた地面は草に覆われきらず、折れた杭や埋もれかけた石が、静かに過去を主張していた。エリナは思わず足を止める。 「ここが……」 アランも同じ場所を見下ろし、短く息を吐いた。その横顔に、昨夜まで見えていた冷たさはない。代わりに、長くしまい込んでいた痛みがあった。 「俺が負傷したのは、この少し先だ」 「聞いてないわ」 「話す必要がなかった」 エリナは唇を結ぶ。ここへ来て初めて、彼の孤独がただの冷淡さではないと知った気がした。守れなかった命。その重さを、彼はずっとこの地に置いたまま、城へ戻ったのだ。 「……あなた、冷たいんじゃなかったのね」 「何だそれは」 「冷たく見えるくらい、痛かったんでしょう」 アランは答えなかった。けれど、胸元で赤い熱が小さく揺れる。怒りではなく、抑えてきた悔いの色だと、今なら分かる。 エリナは視線を落とした。自分だって、同じように責められてきた。和平交渉で前に出るたび、結果を急かされ、失敗すれば役目が足りないと囁かれた。逃げたかったわけじゃない。ただ、両国の言葉の間に立てば立つほど、どちらにも届かなくなっていっただけだ。 「私も、手を抜いていたわけじゃない」 ぽつりと漏れた声に、アランが顔を向ける。 「知っている」 「知らないくせに」 「書庫で見た。おまえの名で残っていた交渉記録も、失敗の報告も」 エリナは目を見開く。 「それ、勝手に読んだの」 「必要だった」 言い訳のようでいて、そこに悪意はない。むしろ、確かめるような静けさがあった。 「おまえは何度も前に立って、どちらの顔も立てようとしていた。だが、誰も助けなかった」 「……そんなふうに言われると、余計に腹が立つ」 「なぜだ」 「同情されてるみたいだからよ」 エリナが睨むと、アランの眉がわずかに下がる。けれど、その赤い熱は弱まらない。むしろ、何かを飲み込むように静かに燃えていた。 「同情じゃない」 「じゃあ何」 「見誤っていた」 その一言に、エリナの胸が止まりそうになる。見誤っていた。たったそれだけなのに、ずっと重くのしかかっていた何かが、少しだけ持ち上がった気がした。 風が吹き抜け、草の葉がざわめく。エリナは旧戦場の向こうに視線を投げ、そしてもう一度アランを見る。 「私たち、互いに勝手に決めつけてたのね」 「そうだな」 「あなたは私を、役目だけの女だと思っていた」 「おまえは俺を、ただ冷たいだけの男だと思っていた」 言い当てられて、エリナは小さく息を漏らした。反論はできない。ここへ来る前まで、それが真実だと思っていたのだから。 アランは焼け跡に目を落としたまま、低く言う。 「守れなかった記憶は、簡単には消えない。だから、誰かを前に出すのが怖かった」 「……私も、失敗を重ねるたびに、誰にも言えなくなった」 二人のあいだを、朝になりきらない風が通り過ぎる。霧も炎もほとんど見えないのに、胸の内だけは騒がしい。エリナはそのざわめきを抱えたまま、アランの横顔を見つめた。 冷たい人ではなかった。壊れないように、ずっと硬くしていただけだ。 アランもまた、彼女の沈黙の奥にある苦しみを見ていた。敵に向ける意地ではなく、両国の狭間で擦り切れた声を。 「エリナ」 名を呼ばれて、彼女は顔を上げる。 「今までの見方は、変わった」 それは告白でも約束でもない。ただの事実だった。だからこそ、エリナの胸には、予想外に深く沈んだ。 「……私もよ」 そう返したとき、遠い空の端がわずかに白み始めていた。旧戦場はまだ静かで、何も終わってはいない。それでも、二人のあいだにあった見えない壁だけは、確かに少し崩れていた。
涙が溶ける場所
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