エラベノベル堂

涙が溶ける場所

全年齢

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8章 / 全10

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夕暮れの中庭は、石畳に残った熱と、噴水の水音だけが妙に生々しかった。エリナは花の影に目をやり、そこで立ち止まった兵たちの気配に気づく。いつもの視線とは違う。刺すようなものではなく、待ち伏せるみたいな静けさだ。 「……変ね」 隣にいるアランが、ほとんど聞き取れない声で言った。その一言だけで、エリナの胸の奥がざわりと揺れる。赤い熱がかすかに跳ねた。彼も、同じ違和感を覚えている。 「何かあるわね」 「分かっている」 そう返すアランの声は低かったが、硬さの奥に焦りが混じっていた。エリナはそれを感じ取って、白い霧が指先のあたりに薄く滲むのを知る。おかしい。まだ何も起きていないのに、身体が先に警鐘を鳴らしている。 そのとき、中庭の奥から一団が姿を現した。和議の使者だ。丁寧な衣をまとい、にこやかな顔をしている。だが、その笑みはどこか細い。エリナはすぐに悟った。あれは歓迎ではない。火種を運んでくる顔だ。 「ご挨拶に参りました、王子殿下、王女殿下」 使者の声は柔らかい。けれど、その後に続く言葉は、意図して選ばれた刃だった。 「人間側では、婚姻の意味を疑う声が強まっております。魔族側でも同じだと聞きました。和平とは、思ったより脆いものですな」 エリナの胸に、白い霧が一気に広がった。見下された。試されている。言い返したいのに、喉の奥が詰まる。 「何を言いたい」 アランの声が割って入る。赤い熱が足元でじりじりと濃くなる。 「ただ、心配しているのです。双方の不満が高まれば、結びつきなどいつでも破綻するでしょう」 その瞬間だった。中庭の端に控えていた兵たちが、ざわりと揺れる。誰かが小さく息を呑み、別の誰かが剣の柄に手をかけた。使者が投げ込んだ言葉は、思った以上に鋭く広がっていく。 エリナは息を止めた。アランの怒りが、痛いほど伝わってくる。彼はすぐに反論できるはずなのに、今は堪えている。堪えているからこそ、熱だけが増していく。 「違うわ」 エリナの声は、思ったよりはっきり響いた。 「結びつきを壊したいのは、あなたたちでしょう」 使者は目を細める。 「証拠でも?」 その一言に、エリナの霧が膨らみかけた。だが次の瞬間、アランがさっと前へ出る。彼の赤い熱が、まるで盾みたいにエリナを包んだ。 「ある」 短い返事だった。けれど、迷いはなかった。 エリナははっとして彼を見る。アランもまた、こちらを見ないまま言う。 「おまえ、さっき使者の袖口を見ただろう」 「ええ。あれ、ここの紋の留め方じゃなかった」 「つまり、ここで用意された衣ではない」 「外から持ち込んだものね」 言葉が重なるたび、霧と熱は互いに澄んでいく。エリナはすぐに察した。疑いの矛先を夫婦に向けさせるための、小細工だ。兵たちの視線が使者へ集まり始める。 「何を根拠に」 使者が声を強くした瞬間、アランの熱が鋭く跳ねた。エリナの胸にも、それがそのまま痛みとして返る。だが同時に、彼が怒りを飲み込んでいることも分かった。 「根拠なら、もうある」 エリナは一歩前へ出た。霧が白く裾を引く。それでも引かなかった。 「使者がここへ来たのは、和議の確認じゃない。対立を煽るためよ」 「そんなことを証明できると?」 「ええ」 アランが目だけで合図する。言葉にしなくても分かる。今、相手を見誤れば終わる。 エリナは唇を結び、使者の顔を正面から見据えた。 「あなたは、私たちがぶつかればいいと思っていた。でも無駄よ。少なくとも今は、私たちのほうが早い」 アランが小さく息をつく。赤い熱はまだ強い。けれど、そこには怒りだけではなく、確かな信頼が混じっていた。 「エリナ」 名を呼ばれて、彼女は振り返る。 「続けろ」 その一言で、胸の奥の霧が少しだけ静まった。彼は、もう疑っていない。疑う余地がないのだ。互いの感情が、危機のたびに先に反応してしまうから。 エリナは深く息を吸った。もう、ひとりでは無理だ。 信じるしかない。アランも、今の自分も。 中庭の空気が、重く沈んでいく。使者の笑みは、もう最初のようには整っていなかった。

8章 / 全10

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