エラベノベル堂

ライバルは今夜、隣に座る

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8章 / 全10

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「……ここ、息が詰まるな」 健太がぽつりと言って、非常階段の扉を押し開けた。アトリエの熱と布の匂いが背中で閉じ、冷えた夜気が一気に肺へ入ってくる。遥香は肩をすくめ、後ろに続いた。 「いまさら。ずっとそうじゃん」 「だから、外に出たかった」 階段の踊り場で立ち止まると、ガラス越しに都心の夜景が広がっていた。高層ビルの灯りが、遠い川みたいに揺れている。遥香は手すりに指を置き、しばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。 「変だね。これだけ離れると、さっきまでの言い合いが嘘みたい」 「嘘じゃないだろ」 「まあ、そうだけど」 健太は苦笑して、夜景に目を向けた。沈黙が落ちる。けれど、今度は気まずさより先に、言葉にしなかったものが浮かび上がってくる気がした。 「遥香」 「なに」 「お前、なんでここまで来た」 唐突な問いに、遥香は瞬きを一つだけ返した。夜風が髪を揺らし、さっきまでの熱を少しだけ冷ましていく。 「……才能があるって、言われたかったから」 自分で口にして、遥香はわずかに顔をしかめた。 「正確には、才能だけじゃない。ちゃんと、私の力だって証明したかった。頑張ってるだけじゃ足りないって、ずっと思ってたし」 健太は何も挟まず、黙って聞いている。 「誰かに選ばれるのを待つの、嫌だった。待ってる間に、私のほうが先に終わる気がして」 その言葉は、冷たい夜気よりも静かに落ちた。健太は手すりに軽く指をかけ、視線を夜景へ戻す。 「……俺は逆だな」 「逆?」 「認められたかった。ちゃんと見てくれる誰かに。すごいって言われたいとか、勝ちたいとか、そういうのもあったけど」 一拍置いて、健太は言葉を探すみたいに唇を結んだ。 「でも一番は、見てほしかったんだと思う。何も言わなくても、こいつは分かってるって思える相手に」 遥香は思わず健太を見た。夜の輪郭に沈んだ横顔は、いつもの刺々しさが少し薄い。 「そんなの、意外」 「悪いか」 「悪くない。ちょっと……ずるいだけ」 「ずるいのはお前もだろ」 軽く言い返した声が、妙に優しい。遥香は視線を落とし、手すりを強く握り直した。 「私、ずっと一人で立ってるつもりだった。でもさっきから、なんか違う気がしてる」 「俺もだ」 健太がそう返した瞬間、遥香ははっとして顔を上げる。ここまで積み上げてきた張りつめた気持ちが、夜風に少しずつほどけていくみたいだった。 「……ねえ、健太」 「なんだ」 「私のこと、見てたんだね」 「うん。ずっと」 その返事に、遥香は悔しそうに笑う。けれど胸の奥は、なぜか軽かった。認められたかっただけの言葉が、ようやく届いた気がしたからだ。 「じゃあ、私も言う」 「何を」 「お前のこと、ちゃんと見てた」 健太は一瞬だけ目を見開き、それから何も言わずに息を吐いた。夜景の灯りが、ふたりの間で静かに瞬く。誰にも見せなかった渇きが、今は同じ高さで並んでいる。 「……戻るか」 「うん。もう少しだけ、頑張れそう」 遥香がそう言ったとき、健太は返事の代わりに階段の下を見下ろした。アトリエへ続く扉の向こうで、何かがまだ待っている気がしてならなかった。

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